NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/10/22


田舎館村 田んぼアート Inakadate-mura-tanbo-art 

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 田舎館村・田んぼアート(いなかだてむら・たんぼあーと)は、青森県南津軽郡田舎館村が、村起こしの一つとして始めた、田んぼをキャンバスとして色の異なる米を使って巨大な絵を作り出すプロジェクトのことである。
 平成五(1993)年から始まったもので、田舎館役場の東側にある、約1.5ヘクタールの水田をキャンバスとして、黄稲と紫稲の古代米二種と、この地方で栽培されているブランド米の「つがるロマン」を使って、モチーフとなる絵になるよう、配色を考えながら植えられていく。
 村役場には天守閣を模した展望室が設置されており、配色や植える位置は、ここから眺めた時に最適となるよう、設計されている。
 モチーフとなる絵は、主に日本人の芸術作品が用いられており、これまでに恵比寿様と大黒様や葛飾北斎の「富嶽三十六景」、俵屋宗達の「風神雷神図屏風」などが再現されている。
 田植えや稲刈りへの参加者も募集されており、見るだけでなく、作る喜びも味わえる、村を代表する一大イベントとなっている。
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2008/10/1


佐多岬 Sata-misaki 

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 佐多岬(さたみさき)は、九州本島最南端の岬。霧島屋久国立公園に含まれる。
 南端の断崖から50mほど沖にある大輪島には、日本最古の灯台のひとつである佐多岬灯台がある。この灯台は、明治四(1871)年にイギリス人の手により設計。太平洋戦争で焼失したが、昭和二五(1950)年に再建された。この灯台からの眺めは素晴らしく、西には開門岳、眼前には太平洋が大きく広がる。天気の良い日には種子島、屋久島なども望める。
 佐多岬には亜熱帯植物が生い茂り、特にソテツの群生が見事だ。「鹿児島県のソテツ自生地」として国の天然記念物にも指定されている。ほかにハマユウ、ビロウなどの白く可憐な花を見ることができる。
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2008/9/26


等持院 Touji-in 

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 京都市北区の臨済宗天龍寺派の禅寺、等持院(とうじいん)は足利家の菩提寺として知られている。
 暦応四(1341)年、足利家と縁のあった夢窓疎石(むそうそせき)を開山として足利尊氏によって等持寺が創建された。尊氏の死後、寺は菩提所となり、名前を等持院に改められた。
 寺に入るとまず目に入るのが、禅宗の祖師である達磨大師の大きな襖絵である。
 開祖の疎石は多くの庭園を設計したことでも知られており、等持院の東庭も疎石作庭とされている。室町時代の回遊式の庭園は、国の特別史跡及び特別名勝に指定されている。紅葉に囲まれた庭園の眺めはまた格別である。
 霊光殿と呼ばれる納骨堂には、尊氏が信仰した弘法大師作の地蔵尊像を中央に、達磨大師像、疎石の像が祀られている。そしてさらに両側に足利家歴代の将軍達の木像がずらりと安置されており、その様子は圧巻である。
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2008/9/1


興福寺 三重塔 Koufuku-ji Sanjuu-no-tou 

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 興福寺の三重塔は康治二(1143)年に創立されたものであるが、治承四(1180)年の大火で焼失し、その後鎌倉前期に再建されている。
 本瓦葺で高さは19.15メートル。「みかえりの塔」として有名な長野県の大法寺(だいほうじ)三重塔と同じく、一番下の軒である初重がやや大きく設計してあり、落ち着いたシルエットになっている。
 また、白壁と木組みのコントラストが印象的で、洗練された美しさだ。初層内部は四天柱を板壁で対角線方向に仕切り、千体仏を描いている。中央には窪弁才天像とその諸尊が祀られている。
 毎年七月七日に「弁才天祭り」が開催され、特別開扉される。昭和二七(1952)年に国宝に指定された。また、塔を含め興福寺は「古都奈良の文化財」の一部として、平成一〇(1998)年に世界遺産に登録されている。
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2008/8/22


樺崎砲台跡 Kabasaki-houdai-ato The Remains of Kabasaki Battery Fortress

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 樺崎(かばさき)砲台跡は安政ニ(1855)年、宇和島湾の守りとして、山を切り海を埋め立てて建てられた砲台跡で、当時宇和島に来ていた医師であり幕末から陸軍指導者として活躍した大村益次郎、通称村田蔵六の設計・考案とされている。
 海外に門戸を開いた「安政の開国」によって、瀬戸内海にも諸外国の船が頻繁に入港するようになると共に、県内の各藩は海岸防備の必要性に迫られた。なかでも宇和島藩は、藩主伊達宗城を中心に富国強兵策を推進し、軍備の近代化に力を注いだという。そんな中この洋式砲台が造られた。
 総面積一五三坪、器械蔵二二坪。海を埋め立て台場を築く工事はかなり難航したという。敷地には砲眼・火薬庫などの施設と青銅製大砲五門が設置された。
 砲台跡は昭和六〇年代までは海だったという宇和島港に立つ、宇和島市立歴史資料館の隣に保存されている。同資料館の建物も元警察署で明治建築の味わいのある建物である。
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2008/7/28


無鄰菴 Murinan 

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 京都市左京区の一角にあり、風光明媚な庭を持つ別荘。それが無鄰菴(むりんあん)である。
 明治、大正期の元老であり、内閣総理大臣も勤めた山縣有朋(やまがたありとも)が所有していた。
 有朋自らが、海外の庭園なども参考にして設計、監督し、当時の造園家の手により作庭された和洋折衷の庭が有名である。
 明治二九(1896)年に完成した庭は、京都東山を借景として池や芝生を配した池泉遊式になっており、琵琶湖疏流が引き入れられて、流れる水音がどこからでも聞こえるようになっている。
 醍醐寺三宝院の滝を模した三段の滝もあり、ツツジやカキツバタの色付きなど、四季折々の風情を楽しむことができる。
 それまでの山水画のような作庭とは違い、どこか牧歌的な雰囲気を併せ持った庭でもある。
 この庭を眺めながら、明治三六(1903)年、有朋と伊藤博文、桂太郎、小村寿太郎の四者によっていわゆる「無鄰菴会議」が開かれ、日本の一時代を築いた場所としても知られている。
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2008/6/24


五所川原立佞武多 Goshogawara-tachineputa 

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 五所川原立佞武多(ごしょがわらたちねぷた)は、青森県五所川原市にて毎年八月四日~八日にかけて開催される祭りである。
 「青森ねぶた」と「弘前ねぷた」に並ぶ青森三大佞武多の一つで、高さが最大で20mを超える山車が壮大に運行される。
 中国から伝わった「中元」の行事が起源といわれ、400年以上もの間受け継がれて来た火祭りで、五所川原市のねぷたは、現在「たちねぷた」と呼ばれ、明治四〇年頃に始まったといわれている。
 大正時代以後、一時は衰えたねぶただが、平成五(1993)年に設計図と写真が発見され、翌年、市民劇団により高さ7mのねぷたが復元、祭りは復活をとげた。
 祭りでは、高さ約22m、重さ約17トンの巨大な山車の立佞武多が「ヤッテマレ!ヤッテマレ!」の掛け声のもと五所川原市街地を練り歩く。
 五所川原立佞武多は、巨大な山車が特徴の勇壮な夏祭りである。
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2008/5/14


高岡城 Takaoka-jou 

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 広大な堀を持つ城として有名な高岡城(たかおかじょう)は、加賀藩二代目藩主の前田利長の隠居城として慶長一四(1609)年に築かれた。城の設計にはキリシタン大名として有名な高山右近が関わっている。
 利長はその五年後に病気で亡くなったため、未完成のまま一国一城令が出された元和元(1615)年を迎え、廃城となった。その後は加賀藩の蔵として利用され、人々の立ち入りは禁止されたという。
 面積の約三割が堀になっていて、掘り出された土は土塁として利用されており、今も随所に石垣などと共に残されている。
 明治八(1875)年に高岡古城公園として開放されて以来、珍しい水濠公園として、また四季を通して古城の趣を満喫できるため、憩いの場として市民に親しまれている。
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