NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/3/10


八橋人形 Yabase-ningyou 

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 八橋人形(やばせにんぎょう)は素朴な土人形で、江戸時代後期に京都伏見の人形師が秋田市八橋に伝えたとされる。その昔、町内にある天神様を祀る菅原神社の縁日で売られ、境内には人形屋が軒を連ねたという。
 男の子が生まれると天神人形、女の子が生まれると雛人形を求め、家に飾って子供たちの成長を願った。ずっしりとした土の量感と、決して派手ではない彩色が特徴的だ。
 現在、伝統工芸八橋人形を製作するのは、道川土人形店の一軒しかない。ずっと後継者不足に悩まされてきたが、なんとか後継者が決まり、店主はほっと胸をなでおろしている。
 先々代が作った合わせ型に粘土を詰め乾燥させて焼く作業は夏場に、絵付け作業は冬場に行う。絵付けに一番神経を使うのは目を入れる瞬間で、一瞬呼吸を止めて精神を集中させる必要があるという。
 丹念に絵付けされた手作りの土人形のぬくもりが、全国の愛好家の心を癒しているに違いない。
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2008/2/25


田村耕一(人間国宝) TamuraKouichi 

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 たむら・こういち。大正七(1918)年六月二一日~昭和六二(1987)年一月三日。日本の陶芸家で、鉄絵の変化を取り入れた絵付け技術が高い評価を得た。
 雛人形師だった田村林次の次男として佐野市に生まれる。昭和一六(1941)年、東京美術学校図案科を卒業後、大阪府商業学校教諭として赴任。昭和二一(1946)年、京都の松風研究所に入所。この研究所の顧問で大先輩の富本憲吉から直接指導を受け、その体験が後の創作への考え方や工芸観に大きな影響を与えることとなった。
 昭和二三(1948)年に郷里の佐野へ帰り、赤見窯の創業に参画。昭和二八(1953)年から自宅に四袋の登り窯を築き、本格的な作家活動に入った。
 酸化鉄を用いて釉下に文様を表す鉄絵を得意とし、また青磁銅彩など磁器においても独自の発想にて新境地を切り拓いた。一貫して鉄釉の変化を取り入れた絵付けを中心に展開し、昭和六一(1986)年に重要無形文化財「鉄絵」の保持者(人間国宝)に認定された。
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三浦小平二(人間国宝) MiuraKoheiji 

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 みうら・こへいじ。昭和八(1933)年三月二一日~平成一八(2006)年一〇月三日。日本の陶芸家。
 佐渡の小平窯という無名の窯元、三浦小平の長男として誕生。昭和二六(1951)年、父の勧めで入学した東京芸術大学在学中に陶磁器の道に入り、卒業後は青磁の伝統技法を学んだ。
 数回にわたり中近東や東アフリカ、アジア諸国を巡り、各国の磁器の研究や自らの作品づくりに励んだ。特に、古代中国の皇室御用達であった南宋官窯に強い影響を受け、これを目標としながら研究を重ねた。
 その結果、佐渡の赤土を下地とした器に青磁釉(せいじゆう)をかけるという独特な技法を開発。さらに、青磁の一部に豆彩(とうさい)の技法を用いて人物や風物を絵付けして作風を確立した。器そのものの形にも感性が反映され、その現代的な感覚は、陶芸の世界に新風を巻き起こして注目された。
 平成八(1996)年に紫綬褒章を受章。平成九(1997)年には重要無形文化財「青磁」保持者(人間国宝)に認定された。
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2008/2/22


かぶら盆(桑名盆) Kabura-bon(kuwana-bon) 

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 かぶら盆は、欅(けやき)、栓(せん)、檜(ひのき)などに漆を塗って作った盆に、かぶらの絵を描いた三重県桑名地方の伝統工芸品で、かつては桑名盆と呼ばれていた。
 江戸時代初期、伊藤勘六という塗師(ぬし)が、盆に草花や果実の模様を描き売り出したのが始まりという。江戸時代後期、時の老中・松平定信が、文人画家の谷文晁に命じてかぶらの絵を描かせ、将軍家へ献上したことから、特にこの名で呼ばれ有名になった。かぶらの丸い形は家庭円満を、根ひげは子孫繁栄をあらわし、縁起物としても重宝されている。
 丸盆から角盆、重箱、吸物椀、茶托、銘々皿に描かれた絵は、葉やひげのかすれ具合が一つ一つ微妙に異なる。樹齢三百年以上の天然木を使い、何度も漆を重ね塗りして作った盆に、勢いよく一気にかぶら絵を手描きする。全国的にこのような絵付けの技法は珍しく、伝統の職人技がきらりと光る。
 平成一二(2000)年三月、三重県の伝統的工芸品に指定された。
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2007/12/4


瑠璃釉 Ruriyuu 

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 「釉(ゆう)」とは、釉薬(ゆうやく)、いわゆる陶磁器に使われる上薬(うわぐすり)のことで、水漏れ防止・保護膜・強度・見た目の綺麗さを表すなど、様々な役割がある。その中でも「瑠璃釉(るりゆう)」とは、本焼用の透明釉の中に、染め付けに用いる鉱物質の顔料である呉須(ごす)を入れてつくる、瑠璃色の釉薬のことをいう。
 単に瑠璃と呼ぶ場合は、釉薬を意味する場合と、瑠璃釉の掛かった作品を指す場合がある。磁器によく使われ、陶器に用いられることは殆どない。
 瑠璃釉の作品は深い藍色が特色である。
 藍色の染付との違いは、染付は呉須を原料とした下絵付けの絵具ですが、瑠璃釉は透明な白磁釉に呉須を混ぜたもの。瑠璃釉は釉薬なので、深く透明感のある発色がでる。
 瑠璃釉は、普通の磁器釉にコバルトを1~3パーセント添加してつくる。長石分が少なく、石灰が多い方が美しい色合いだといわれている。
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2007/11/20


虫明焼 Mushiage-yaki 

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 虫明焼(むしあげやき)は、岡山県瀬戸内市邑久町に伝わる工芸品である。県の伝統工芸品に指定されている。
 年代は不明だが、海上交通の要であったこの地にもたらされた朝鮮系の焼き物が起源であると考えられている。
 寛政年間(1789~1800)、岡山藩主・池田家家老の伊木忠興が御庭窯として開いた頃に、現在の形が出来上がったという。
 京都の清水焼の流れに、家伝の釉薬による掛け分け、筒書き、絵付け、流し釉(ながしぐすり)など、虫明焼の伝統技法を加えた優雅な焼物である。
 肉厚できめの細かい肌ざわりとやわらかい曲線、緑がかった薄茶色などが、気品のある優しい風合いをつくり出している。
 虫明焼は、洗練された造形美と釉調の美しさが特徴の、伝統工芸品である。
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2007/7/25


色鍋島 Iro-nabeshima Iro-Nabeshima (Colored Nabeshima Ceramics)

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 色鍋島(いろなべしま)は、有田焼のひとつの色絵磁器である。
 花鳥風月をモチーフに、繊細で緻密な色絵を施す色鍋島は、格調高く洗練された意匠が特徴。現在では、有田の名窯・今右衛門がその伝統と技術を継承している。
 文禄・慶長の役の際中国より連れ帰った陶工団により、日本で初めての磁器が有田で焼かれた。その後寛永年間の1640年代に中国より色絵の技術が伝わり、有田の初代今右衛門が色絵付けの磁器を作っていたとされる。その後、今右衛門は鍋島藩の藩窯となり、献上品や贈答品用の色絵磁器の仕事を担うことになる。これが色鍋島のルーツとされる。
 十代今右衛門が明治六(1874)年頃から本格的に色鍋島に取り組み、優れた赤絵の技法の確立に成功した。十三代今右衛門は現代の角度からの色鍋島に意欲を燃やし、平成元年には色絵磁器で人間国宝に認定された。
 現在も、十四代今右衛門が代々伝わる色鍋島の技を継承しながら、現代的な試みに励んでいるという。
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2007/6/21


尾形光琳 Ogata Kourin Ogata Korin

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 江戸時代の画家、工芸家。万治元(1658)年-享保元(1716)年六月二日(7月20日)
 京都の呉服商雁金屋の次男として生まれた。
 光琳三〇歳の頃、父が亡くなった。この頃には雁金屋の経営は破綻していたが、元々遊び人だった光琳は遊興三昧の日々を続け、経済的困窮が一因で、元禄一四(1701)年頃画業を始めた。
 光琳は公家、大名、役人等に多くのパトロンを持っており、ニ条家にも出入りしていたとされる。
 宝永元(1704)年頃、京の役人であった中村内蔵助が江戸詰となり、頼りに江戸へ下った。江戸でも大名や豪商等のパトロンがいたが、宝永六(1709)年には京都に戻った。
 作品は、大画面の屏風、香包、扇面、団扇、手描きの小袖、蒔絵、実弟の尾形乾山の作った陶器への絵付け等、さまざまな作品を残した。特徴として、大体な構図や独特のリズム感、華やかな画面構成は「琳派」と呼ばれる画派の代表的画家とされ光琳模様という言葉を生んだ。
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