NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/11/5


河後森城跡 Kagomori-jo-seki 

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 「河後森城跡(かわごもりしろあと)」と書かれた大きな石碑が立つ登山道入り口。そこから自然散策をしつつ、中世の歴史を残す城跡を見てまわることができる。また山頂からの素晴らしい展望も見物である。
 河後森城跡は伊予と土佐の国境におかれ、1997年に国の史跡に指定された、指定面積二〇二・〇三八平方メートルという県下最大級の中世城郭跡である。
 鎌倉時代から江戸時代初期まで、約四〇〇年あまりに渡ってこの地域を支配した宇和郡領主・西園寺氏の旗本、河原淵(かわらぶち)氏の豪壮な居城跡。戦国時代には長宗我部(ちょうそかべ)軍勢と戦った古戦場でもあるという。
 城郭内からは当時の面影を残す沢山の貴重な遺構や、当時中国から運ばれた陶磁器、国産の備前焼の壷、多くの瓦など、遺物が多数出土しており、現在も発掘調査や整備が続けられている。
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2007/6/11


本陣 Hon-jin Honjin

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 本陣(ほんじん)とは、宿場の中でも大名や旗本、幕府役人、勅使、宮、門跡などの貴人が使用した特別な宿舎のことであるが、本来は戦国期の戦場において大将のいる本営のことを指す名称であった。それがやがて武将の宿泊するところを言うようになり、前述のように宿場内における貴人専用の宿泊所を指すようになった。
 本陣を勤める者は、宿役人の問屋や村役人の名主などが兼ねていることが多く、その規模は千坪以上の屋敷地に御成門や上段の間などの格式を備えていた。本陣の主は武士ではないが、民間が禁止されていた名字帯刀を許され、門や玄関などを設けることが特権のようになっていたという。
 現在残っていて公開されている本陣は13カ所あり、中でも最大級の規模を誇っているのは、東海道五十三次のうちの第五十二之次である草津宿本陣で、敷地面積4727平米、建物面積1706平米、部屋数39を備え、国指定史跡となっている。
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2007/4/19


静岡 黒田家住宅 Shizuoka Kuroda-ke-jyuutaku The Kuroda Family’s Residence in Shizuoka

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 静岡の黒田家住宅は、静岡県菊川市下平川にある歴史ある代官屋敷であり、国の重要文化財に指定されている。
 黒田家は源氏の血を引く武士であった。永禄年間(1558〜70)に、黒田義重が遠江国に移り下平川に住んだといわれる。
 江戸時代後期、旗本の本多助久が不平川村周辺を領すると、黒田氏はその代官に任じられた。明治維新以降は、村長、町長を歴任して、この地方の発展に寄与した。
 黒田家住宅の母屋は寄棟造り、桟瓦葺きの建物で、玄関は格式の高い式台を有している。
 江戸時代の代官屋敷らしい念入りな造りが随所に施されており、長屋門は寄棟造り、茅葺きの建物で、築後250年とされる。
 黒田家住宅は、江戸時代末の代官屋敷の建築様式を今に伝える、貴重な文化遺産である。
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寶林寺 Hourin-ji Horinji Temple

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 寶林寺(宝林寺、ほうりんじ)は、静岡県浜松市細江町中川にある黄檗宗(おうばくしゅう)の禅寺である。本尊は、釈迦如来とされる。
 寛文4(1664)年、黄檗宗開祖隠元禅師と共に来朝した明国の僧・独湛禅師が、旗本の近藤登之助の尊崇を得て、近藤家の菩提寺として開創された寺院である。
 創建当時は黄檗禅の専門道場として栄え、七堂伽藍も整い、5万坪を超える敷地に20棟余りの諸堂が建ち並んでいた。
 しかし明治になると近藤家の庇護を失い、廃仏毀釈の波に飲込まれて多くの堂が倒壊した。
 寛文7(1667)年竣工の仏殿、正徳6(1716)年竣工の方丈は、黄檗宗伝来初期の中国明朝風様式を現代に伝える、大変貴重な建物として、国の重要文化財に指定されている。
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