NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/8/19


龍岡城 Tatsuoka-jou 

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 龍岡城(たつおかじょう)は、長野県佐久市にある城跡である。
 日本に二つある星形の西洋式城郭の一つで、もう一方の函館の五稜郭と同じ形をしていることから「龍岡五稜郭」の別名も持つ。
 三河奥殿藩の藩主だった松平乗謨(まつだいらのりたか)により、洋式築城の許認可を幕府に届け出て、慶応二(1867)年に築城された。
 その後も五稜郭を取り囲むように外堀が掘られていったが、完成を見ずに明治維新を迎えることとなり、堀もその途中で作業が中断されて現在のように途中までのものとなっている。
 実戦において極めて優れた城とされるフランスのヴォーバン城をモデルとしているものの、壁が低くて水堀も狭く、砲台も西方に一基しか無いため、龍岡城はあまり実戦には向かないものと見られている。
 現在では跡地に小学校が建ち、稜保式の石垣や水堀、御台所が遺構として残っている。
 幕末の動乱の中で築かれた城は、今は小学生達の元気のよい掛け声と共に余生を送っている。
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2008/8/14


砥石城跡 Toishijoato 

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 砥石城(といしじょう)は、現在残っている戦国時代の山城の中でも位置、城主がはっきりしている城址。長野県上田市住吉に位置し、そそり立つ岸壁上に建っている。
 築城は室町時代中期、備前国の守護代・浦上氏に仕えた宇喜多能家の居城であった。
 上田地方にはたくさんの山城跡があるが、砥石城跡のように戦国時代4回も対決が行われた城は他に見当たらない。天文十九(1550)年には甲斐の武田信玄が村上義春の守る砥石城を、大軍を持って攻めたが、堅固な山城のため攻略できず、敗退した。その翌年、武田信玄配下の真田幸隆が攻略、砥石城を乗っ取る。その後も天正十三(1585)年の第一次上田合戦や慶長五(1600)年の上田合戦などで、砥石城は村上・武田・真田・徳川氏らの争いの場となった。
 今では築城期の石垣、二の丸などが残るのみ。城跡からは、上田市街と真田の町並みを一望できる。
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神之峰城跡 Kannomine-jo-ato 

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 神之峰城(かんのみねじょう)は、戦国時代の竜東(現長野県飯田市)の雄・諏訪氏の流れを汲む知久頼元の居城だった城。
 下伊那に勢力を張った知久頼元は、諏訪氏滅亡後、武田信玄に従ったが、天文二三(1544)年、武田氏に反旗を翻したため、信玄の攻略を防ぐことかなわずに落城した。
 現在城跡は、市の史跡に指定されており、天龍小渋水系県立公園の一部となっている。山頂部にはテレビ塔が立てられているので、山頂まで車で登ることができる。そのNHKのテレビ塔が本丸跡である。城跡には久堅神社がひっそりと佇んでいる。展望台からの眺めは素晴らしく、飯田市街が一望できるという。
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2008/8/13


海野宿 Unno-Juku 

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 海野宿(うんのじゅく)は、長野県東御市本海野にある江戸・明治の伝統的街並みを残す場所である。寛永二(1625)年、日本の道百選のひとつに選ばれている、北国街道の宿駅として開設された。
 北国街道は、佐渡で採れた金の輸送、北陸諸大名の参勤交代の他、江戸との交通も頻繁で善光寺への参詣客も多くあった。
 宿の東西に桝形が置かれ、延長650mあり、中央を流れる用水の両側には103軒の家が続き、人足25人と25頭の馬が常備され輸送にあたっていたという。
 出桁造りの旅籠屋や、防火壁の役割を果たす立派な卯建の立っている家もあり、表構えの格子戸は特に「海野格子」と呼ばれる。
 時代を超えた建物が調和した街並みは、重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けている。
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月蔵山 Gatsuzou-Zan 

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 月蔵山(がつぞうざん)は、長野県伊那市高遠町にある標高1192mの山である。伊那谷で一番広い高遠と与地の間を望み、後方には中央アルプスの山並みが全て見廻せる。
 天文一四(1545)年、武田信玄が当時の領主諏訪頼継を攻め破り、高遠城を築いたとされる。西側山麓の西に突き出した台地上に城趾は存在する。南に三峰川、北から西にかけて流れる藤沢川を見下ろす天険の地であり、彼方に中央アルプス駒ヶ岳を望む。元和七(1622)年、武田信虎の墓が月蔵山中腹に移された。
 文化九(1812)年、月蔵山から高遠城内に水を引くために焼かれた土管が高遠焼の起源で、その後高遠藩の御庭焼きとなった。
 春には高遠城址の満開になった見事な桜を見下ろせる。
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武水別神社 Takemizuwake-Jinja 

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 武水別(たけみずわけ)神社は、長野県千曲市八幡に鎮座する神社である。祭神は、武水別神、誉田別命、息長帯比売命、比呼大神。孝元天皇の御代(紀元前214~紀元前158年)の創祠と伝えられている。
 祭神武水別神は水を司る神で、善光寺平の五穀豊饒と千曲川の治水を祈念して祀られたという。安和年間(968~70年)に京都の石清水八幡宮より、誉田別命・息長帯比売命・比呼大神が勧請され、八幡宮となった。
 以来、この地方随一の八幡宮として、木曽義仲や上杉謙信など武門の崇敬を受けた。明治以後、古来の武水別神社の名に復帰する。現在も地元で八幡さまと呼ばれ、親しまれている神社である。
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2008/7/23


御宝田遊水池 Gohouden-yuusuichi 

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 御宝田遊水池(ごほうでんゆうすいち)は、長野県安曇野市明科中川手の犀川(さいがわ)河川敷にある人口池である。
 遊水池とは、周りの土地を守る為、洪水時に河川の流水を一時的に氾濫させる、人工的に作られた場所を指す。
 御宝田遊水池では、毎年10月下旬に多くのコハクチョウが越冬の為に飛来している。
 北アルプスにある標高2857mの常念岳を背景に、白鳥の舞う姿が美しく、競って多くの写真家が集う事で知られている。
 多くの白鳥が、昼間は穂高町狐島へ行っている為、昼間ここを訪ねても数える程の白鳥の姿しか見られないが、夕方には雪を戴く常念岳を背景に白鳥が数羽のグループでやってくる。
 御宝田遊水池は、白鳥だけでなく鴨も多く見られる、雪を戴く常念岳との調和が美しい冬の景勝地である。
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2008/7/17


諏訪湖 お神渡り Suwako Omi-watari  Omiwatari (Passage of the Gods) at Lake Suwa-ko

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 諏訪湖のお神渡り(すわこのおみわたり)は、長野県諏訪市にある諏訪湖にて、冬期に見られる自然現象であり、同時に古くより続く伝統の神事でもある。
 お神渡りとは、諏訪湖が全面凍結する際に、湖の中央部の氷がせり上がって氷の山が走る現象で、昔から、諏訪の人々はそれを神々が湖を渡った跡だと信じて「お神渡り」と呼んできた。
 というのも、諏訪には諏訪大社があるが、その上社本宮と下社が諏訪湖を挟んで南北に分かれている為、この時期、神々が氷結した湖上を渡って行き来をするのだと考えられていたからである。
 お神渡りが観測されると、八剱神社(やつるぎじんじゃ)の神主により、御神渡りの亀裂の入り方などを過去の記録と照らし合わせ、その年の天候、豊作・凶作、世相などを占う神事が執り行われる。
 諏訪湖のお神渡りは、自然が織り成す神事である。
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