NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/2/18


金剛輪寺 三重塔 Kongourin-ji Sanjuu-no-tou 

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 金剛輪寺(こんごうりんじ)は、奈良時代に聖武天皇の勅願により行基が開山したと伝えられ、本尊は聖観音である。
 金剛輪寺は、西明寺や百済寺とならんで「湖東三山(ことうさんざん)」の一つに数えられ、南北に連なる三山の真ん中に位置している。
 国の重要文化財に指定されている三重塔は、本堂の左手(北側)の小高いところに建っている。
 この寺は天台宗であり、最澄の比叡山延暦寺を総本山とする。そのため天正元(1573)年に織田信長の兵火にあった。被害は受けたものの、本堂と三重塔は焼失をまぬがれた。総門や本坊のある地点から石段を上った奥にあるため見落とされ、焼き討ちをまぬがれたのでないかと言われている。
 この塔は江戸時代に寺院の衰退に伴い破損し、明治時代には三重を失い初重と二重の軸部だけが残った。昭和五〇(1975)年から三年かけて以前の三重塔に復元された。
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宇和津彦神社 秋祭り Uwatsuhiko-jinja Aki-matsuri 

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 宇和津彦神社(うわつひこじんじゃ)は、延暦一一(792)年創建の古社で、一宮神社とも呼ばれ、藩政時代には藩の総氏神として伊達家の崇敬が厚かった。
 ご祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)と景行天皇の子である宇和津彦命(うわつひこのみこと)である。
 この神社で一〇月二九日に行われる秋祭りは、伊達氏とともに東北から伝えられたという八ツ鹿踊りが奉納される。この踊りは市の無形民俗文化財に指定されている。
 鹿の頭をつけ、紅染の布を上半身に纏った雄鹿七頭・雌鹿一頭を八人の少年たちが演じる。胸につけた太鼓を叩き、歌いながら舞う八ツ鹿踊り奉納後、いよいよ神輿の先駆けに牛鬼が登場する。
 牛鬼とは、深紅の布で全身を覆った体に鬼面を付け、胴の長さが6mもある怪物の事で、悪霊払いをしながら町を練り歩く。気に入らない家ではわざと暴れたり、牛鬼同士で争ったりする。悪霊払いの意味をもつ牛鬼は、宇和島を中心とする南予地方独特のものである。
 
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天竹神社 Tenjiku-jinja 

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 延暦一八(799)年、三河地方海岸に小さな漂流船が流れ着いた。その船に乗っていた中国西部の山岳少数民族、崑崙人(こんろんじん)によって日本に初めて綿の種がもたらされたと伝えられている。その後三河地方は木綿の産地として栄えた。
 その崑崙人の遺徳を伝えるため、天保八(1837)年天竹社が建立され、新波陀神(にいはだがみ)として祀られた。これが「天竹神社(てんじくじんじゃ)」の始まりである。
 毎年一〇月に行われる祭礼「綿祖祭」では古式の道具を用いて綿を打つ儀式が行われる。また漂流船にちなみ「舟みこし」がかつがれる。
 日本で唯一、棉祖神が祀られている神社ということで布団屋など木綿を扱う職業や関連する仕事を持つ人なども多く参拝に訪れる。
 境内には綿に関する資料などが展示されている。
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2007/12/21


錦織寺 Kinshoku-ji Kinshoku-ji Temple

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 錦織寺(きんしょくじ)は、比叡山延暦寺の三代座主であった慈覚大師が、夢のお告げに従って松の霊木を探し出し、御堂を建て、毘沙門天王像を安置したのが始まりとされている。
 それから三百数十年後の文暦二(1235)年、親鸞(しんらん)が本尊に阿弥陀像を安置し再興した。言い伝えでは、再興中に天女が下ってきて、蓮糸で織った錦を仏前に献じたという。このことから朝廷より「天神護法錦織之寺」という寺号を賜り、錦織寺の名となった。
 広い境内には、県指定文化財である本尊を安置する阿弥陀堂、親鸞の真影のある御影堂、他重厚な宝蔵・書院・講堂・鐘楼がある。
 火災も多かったが、東山天皇から大宮御所の一部を下賜されたという宮御殿は当時のままであり、親鸞が大著「顕浄土教行証文類」を書き終えた様子の絵像「満足の御影」など貴重な寺宝類が数多く残されている。
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2007/11/9


長福寿寺 Chouhukujyu-ji 

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 長福寿寺(ちょうふくじゅじ)は、千葉県長生郡長南町長南にある天台宗の寺である。本尊は阿弥陀如来。
 延暦一七(798)年、桓武天皇の勅願により、伝教大師・最澄によって創建された。
 正式名を、三途河頭極楽東門蓮華台上阿弥陀坊太平埜山本実成院長福寿寺と言い、日本一長い勅号とされている。
 関東における学問所として、房総内外の寺院子弟の教育にあたり、中世においては西の比叡山、東の三途台と称せられ、房総三国における大本山として末寺308ヶ寺を有した大寺である。
 現在は研修道場としても開放され、各種講演会が開催されている。境内には紅花が咲いており、所蔵の木造慈恵大師坐像は、県指定の有形文化財になっている。
 長福寿寺は、長い歴史を誇る関東随一の大古刹である。
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2007/10/31


青蓮院 Shouren-in 

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 青蓮院(しょうれんいん)は、比叡山延暦寺の三門跡の一つで天台宗の寺院で知られる。門跡寺院とは、皇族や摂関家など高貴な身分の子弟が入寺した、特定の寺院をさす。天台宗の三門跡寺院とは、青蓮院、三千院、妙法院のことである。
 寺の歴史は古く、比叡山につくられた僧侶の住坊が起源といわれ、そのひとつである「青蓮坊」が青蓮院の起源であるといわれている。当時は最澄、円仁はじめ高僧の住居であったという。
 青蓮院は別名「粟田御所(あわたごしょ)」とも呼ばれている。これは天明八(1788)年に京都で起こった天明の大火のとき、後桜町上皇(ごさくらまちじょうこう)の仮内裏になり、そのため江戸末期まで一般の立ち入りが禁じられていたことによる。
 門前にはクスノキの巨樹があり、樹齢は約八〇〇年といわれ、京都市の天然記念物に指定されている。
 また、室町時代に相阿弥(そうあみ)が作庭したと伝えられる龍心池を中心とした回遊式庭園も見物である。
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神泉苑 Shinsen-en 

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 延暦一三(794)年、桓武天皇によって平安京が造営された際、大内裏の南にあった湿地帯を利用してつくられたのが神泉苑(しんせんえん)のはじまりである。常に清らかな神泉が湧き出ていることからその名が付いたといわれる。
 神泉苑は霊場としても知られており、天長元(824)年、干ばつのため淳和天皇の勅命によって弘法大師が雨乞いの祈祷をしたといわれる。この時天竺、すなわちインドから勧請したのが祈雨の神様である善女龍王(ぜんにょりゅうおう)で、それ以降善女龍王は神泉苑に住むようになり、善女龍王を祀るお堂が建てられた。
 また貞観五(863)年に疫病が流行り、神泉苑にて多くの御霊を鎮めるため御霊会が行われた。全国の国の数である六六本の鉾を立て、厄払いをしたのが、のちの京都三大祭のひとつである祇園祭のはじまりであるとされる。
 法成就池(ほうじょうじゅいけ)に架かる朱塗りの橋は法成橋という。願い事を一つだけ心に念じながら橋を渡り、善女龍王にお参りすると願望が叶うといわれている。
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2007/10/18


胆沢城 Isawa-jyou 

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 胆沢城は、平安時代はじめの延暦二一(802)年、坂上田村麻呂によって胆沢の地に造られた古代城柵(じょうさく)である。
 大同三(808)年には鎮守府が国府多賀城から胆沢城へ移され、鎮守府胆沢城が成立。10世紀の後半ごろまでの150年間ほど機能していた。
 高さ約3.9メートル、一辺675メートルの築地(ついじ)といわれる土で固めた塀とその内と外に掘られた幅3〜5メートル 、深さ1〜1.5メートルの溝で方形に囲まれていた。
 全体の面積はおよそ46万平方メートル、(東京ドーム9つ分)、その内部は中央南寄りに一辺90メートル四方の塀で区画された政庁域、そのわきに官衙(かんが)や厨(くりや)などが広がっていた。
 大正一一(1922)年に国の指定史跡となった。
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