NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/3/10


猫ちぐら Neko-chigura 

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 猫ちぐらは、天然の藁(わら)を編んで作った猫用の家で、新潟県関川村の伝統民芸品。
 地元ではその昔、農家で使われていた子守りのためのゆりかごを「ちぐら」または「つぐら」と呼んでいた。当時はどこの家でも猫を飼っていたことから、それを猫用に改造して猫ちぐらが誕生した。大正時代には使われていたという証言があり、明治以前から作られていたものと見られている。
 百パーセント天然の藁を用いて、平均年齢七五歳のお年寄りが、一週間から十日かけてじっくりと丁寧に編み上げる。保湿性が高いうえに通気性にも優れているため、冬は暖かく夏は風通しがよい快適な寝床となり、狭くて暖かい場所を好む猫にとって、最適な環境が与えられる。
 猫ちぐらは特に形が決まっているわけではなく、製作者の創意によって様々な形状のものが存在する。かまくら型や壺型のものが一般的であり、籠状のものはほとんどない。大きなものほど形よく仕上げることができ、小さなものには一層の熟練を要するという。
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2008/3/6


猫又山 Nekomata-yama 

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 猫又山(ねこまたやま)は、富山県魚津市にそびえる、標高2415mの山である。
 毛勝山・釜谷山と並んで、毛勝三山(けかちさんざん)の一角を成している。
 北アルプス立山連峰の北に連なり、高山植物やハイマツなどの植物も多く、ここが片貝川の源流ともなっている。
 頂上からは、剱岳や奥大日、大日、その奥に立山、薬師、鍬崎山が見え、谷の向うには毛勝山や釜谷山が大きく鎮座している。
 伝説によるとその昔、富士山を追い出された猫又が、放浪の果てに黒部の奥山にやってきて、谷に住み着き、次々に人を喰い殺した。
 村人は畏れおののき、狩人達に頼んで大猫狩りを始めた。狩人、村人たちの命がけの戦いで、遂には猫又も逃げ出したという。
 以来、この山は猫又山と呼ばれ、今も「猫の踊り場」と言う場所では、月夜の晩に子猫が集まって来て、夜明けまで踊るという。
 猫又山は、妖怪伝説が伝わる奥深い山である。
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2007/4/26


縁起物 招き猫 Engimono Manrkineko 

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 「招き猫(まねきねこ)」は、お寺の和尚が愛育している猫に向かい「汝我が愛育の恩を知らざれば何か果報を招来せよ」と言い聞かせ幾月日が過ぎたある日、その猫が、寺の前を行進する武士の一行を手招きして誘ったことが起源とされる。和尚が茶などを差し向け説法している内に、天は曇り、夕立ちは激しく降り、雷鳴が轟いた。この一行の家老は、猫に招き入れられたことから、雨をしのぎ、更に和尚のありがたい法談にあずかることができたと大いに喜んだという。以来、この寺は繁盛し、吉運が開いた。
 玄関や商店の店頭に飾ると、開運招福、商売繁盛をもたらす招き猫。白猫は「福を招く」「吉兆招福」。左手は、「金運招福」、右手は「千客万来」を招き、黄色の招き猫は「開運招福」といわれ、黒の招き猫は「無病息災」の縁起物とされている。
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2006/12/17


大阪三味線 Osaka-Shamisen Shamisen 

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三味線が琉球から大阪に伝わったのは、1562年。その当時の三味線は、胴と呼ばれる部分に蛇皮を使用していた。大阪に伝わると、形、大きさ、皮、ばちなどに独自の改良を加え、胴の部分も犬、猫の皮が使われるようになる。また製法や生産も、日本の芸事と深く結びついた改良や工夫がなされ伝承されてきた。江戸時代にはそれらが京都へ、そして江戸にのぼり、江戸時代中期に大きく発展し全国で愛されるようになる。
大阪は芸事が大変盛んで、芝居や歌舞伎の他、商人のお稽古事など、身近に用いられた。完成品に長唄や義太夫などの名前が使われているのを見るとその歴史がよくわかる。
製品の材料となる木には紫檀、花梨、紅木等が使われる。
大阪では今でもひとつひとつ手作業で作られ、その風土と生活の中で、伝統的な製造技法が、約400年受け継がれ今日にいたっている。
大阪府の伝統工芸品。
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2006/11/29


愚陀仏庵 Gudabutsu-an Gudabutsuan 

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 愚陀仏庵は、愛媛県松山市にある夏目漱石ゆかりの史跡。漱石が明治26年(1893年)に英語教師として松山へ赴任した折に下宿、一時期正岡子規が居候していたこともある2階建て住まいだ。現在、市立子規記念博物館と萬翠荘裏に復元・建造されている。
 愚陀仏庵の名付け親は正岡子規。子規の同居時にはここ愚陀仏庵に俳句仲間が集まってにぎわったという。子規が日本派俳句結社「松風会」の会員に日夜、俳句の指導をし、漱石も自らを「愚陀仏」と称して俳句に熱を上げた。当時、文学者として迷いがあった漱石にとって、俳句は格好の自己表現の道標となったのである。
 その後夏目漱石は1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。文豪としての道を歩む。愚蛇仏庵は、漱石にとって創作の原点だったのかもしれない。
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日光東照宮(世界遺産) Nikkou-Toushougu(Sekai-isan) Nikko Toshogu Shrine, the World Heritage

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 日光東照宮は元和三年 (一六一七年)徳川家康公を奉祀し二代将軍秀忠公により造営され、その二十年後、三代将軍家光公により建て替えられた神社である。国指定文化財(国宝、重要文化財)の建造物は、その時建立された木殿や陽明門など三十五棟を中心に、その前後に建立されたものや、大名の奉納による五重塔や石鳥居など五十五棟になる。平成十一年(一九九九年)には、世界遺産にも登録された。
 手を叩くと反響音が返って来る「鳴き龍」や左甚五郎作の「眠り猫」などの彫刻が有名。
 また、徳川家康公が関ヶ原の合戦に乗馬された馬が奉納された厩舎(うまごや)の長押の上には、馬を病気から守るとされていた猿の彫刻がなされている。左から順を追って猿の一生を描きながら「人の生き方」を説いたこの作品の中「見ザル、言わザル聞かザル」は日本人なら知らない人がいないほど有名な彫刻である。
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