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2008/10/21


岸和田だんじり祭 kishiwada-danziri-matsuri 

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 大阪府岸和田市(きしわだし)の岸和田だんじり祭は、「だんじり」と呼ばれる欅(けやき)の山車を綱で曳き、疾走する全国的にも有名な祭りである。
 元禄一六(1703)年、岸和田藩主の岡部長泰(おかべながやす)が、五穀豊穣を祈願して稲荷祭をおこなったのが始まりである。
 毎年九月と一〇月に行われ、各町ごとのだんじりを総勢500人の若者が曳き回す。この祭りの見せ場は、だんじりが曲がり角で方向転換する時の豪快な「やりまわし」である。祭りの二日間、定められら曳行路を何度も駆け巡り、重さ四トンもあるだんじりを、疾走しながら直角に向きを変えるのである。
 だんじりには屋根が二つあり、前方の大屋根の下では、大太鼓、小太鼓、笛、鉦の鳴り物が演奏される。最初は緩やかに、そして徐々に囃子が早くなり、曳き手も駆け足になる。そして曲がり角が近づくと両方の屋根に乗った大工方の指示で一気に曲がる。
 日没後は、だんじりに約二百個の提灯が灯り、子ども達が乗り込んで、灯入れ曳行きが行われる。
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2008/2/22


かぶら盆(桑名盆) Kabura-bon(kuwana-bon) 

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 かぶら盆は、欅(けやき)、栓(せん)、檜(ひのき)などに漆を塗って作った盆に、かぶらの絵を描いた三重県桑名地方の伝統工芸品で、かつては桑名盆と呼ばれていた。
 江戸時代初期、伊藤勘六という塗師(ぬし)が、盆に草花や果実の模様を描き売り出したのが始まりという。江戸時代後期、時の老中・松平定信が、文人画家の谷文晁に命じてかぶらの絵を描かせ、将軍家へ献上したことから、特にこの名で呼ばれ有名になった。かぶらの丸い形は家庭円満を、根ひげは子孫繁栄をあらわし、縁起物としても重宝されている。
 丸盆から角盆、重箱、吸物椀、茶托、銘々皿に描かれた絵は、葉やひげのかすれ具合が一つ一つ微妙に異なる。樹齢三百年以上の天然木を使い、何度も漆を重ね塗りして作った盆に、勢いよく一気にかぶら絵を手描きする。全国的にこのような絵付けの技法は珍しく、伝統の職人技がきらりと光る。
 平成一二(2000)年三月、三重県の伝統的工芸品に指定された。
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2007/12/26


盆栽村 Bonsai-mura 

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 盆栽村は、埼玉県さいたま市の大宮公園北側の総称であると共に、盆栽という独自の文化を生み出した日本においても屈指の郷として知られている場所である。
 大正一四(1925)年、関東大震災で被災した盆栽業者が現在の地に移り住み、盆栽を生業としたことがその始まりとなる。
 その後は、元々この地に住んでいた人たちにも盆栽が浸透し、また新たに盆栽を生業とする人々が集まって村としての形を成していくこととなる。
 同じ趣味と生業を有するものが自然に集まってできた集落であり、昭和一五(1940)年には世界にもあまり例のない行政上の町として、現在の「盆栽町」の名を称するまでになった。
 周辺の道路は碁盤の目状に造られ、サクラやモミジ、カエデ、ケヤキなどが植えられて、それぞれが通りの名にもなっている。
 いうなれば、盆栽村そのものが一つの盆栽のように美しく整えられているのである。
 そんな大きな盆栽を楽しみながら、更にお気に入りの一鉢を見つけてみるのも一興かもしれない。
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2007/11/7


三ケ所神社 Sangasyo-jinja Sangasho Shrine

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 五ヶ瀬町は、宮崎県の北西部、九州のほぼ中央部に位置し、ここに花の名所として知られる三ケ所神社(さんがしょじんじゃ)がある。天孫降臨(てんそんこうりん)の地と伝えられる二上山(ふたがみやま)の祠(ほこら)を、山麓に降ろして建てられた神社で、イザナキとイザナミを主祭神として祀っている。
 創建は昌泰年間(898~901)、元亀二(1571)年に再建された。文化一四(1817)年に建てられた本殿は1本の欅から造られた見事な流造り。当時の名工による手の込んだ木彫が美しい。
 三ケ所神社では春例祭がおこなわれる頃、四月中旬~五月下旬にかけて、境内にあるつくししゃくなげ一万二千本が咲き乱れる。そのほかしだれ桜、椿が満開時見事な姿をみせる。
 また、国の重要無形文化財に指定されている三ケ所神社等に奉納される「荒踊」は、九月最終土曜日に奉納され、戦国時代の武者装束をつけて踊る勇壮な舞として知られる。
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2007/10/31


笏拍子 Shakubyoushi 

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 笏拍子(しゃくびょうし)は、日本に古来より伝わる伝統的な音楽、雅楽で用いられる楽器の一つであり、各種ある雅楽器の中でも最も簡単な造りをしている。
 その形は、平安時代の貴族や神社の神官が持っている笏を二つに割ったような形をしているが、当初は二枚の笏が用いられていたという。
 長さはおよそ35cm、厚さは1.2cmほどで、上の方が幅広く下のほうが狭くなっている。
 材質に特に決まりはないとされるが、実際の笏と同じ材質であるイチイや、音質の良さからケヤキを用いることもある。
 その用法は、左は真ん中の合わせ目を奏者の方に向け、左の側面に右の合わせ目を強く打ちつけて音を鳴らすもので、歌の主唱者がこの笏拍子を打って、全体の速度である拍子を決めていく。
 主に国風歌舞や古代歌謡の一つである催馬楽(さいばら)など、謡物(うたいもの)で用いられている。
 この楽器が打ち鳴らす音により雅楽の雅な音色と歌は、よりいっそうの魅力を増す。
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2007/10/15


天神社 Ten-jinja 

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 面積の八割以上が山林という自然豊かな大洲市川辺町。川辺川上流に位置する北平地区、秋知川に屋根付きの「御幸の橋(みゆきのはし)」がある。
 県の有形民俗文化財にも指定されている御幸の橋が架かる道は、「北平天神社」の参道になっており、道幅の狭い橋を渡ったところに社殿と鎮守の森がある。
 「天神社(てんじんじゃ)」は生前の優れた学力・才能により「学問の神様」とも呼ばれ、また「天神様」として畏怖された菅原道真が祀られている。
 境内に入ると、正面に大岩がそそり立ち、その岩の上に岩を抱え込むように根を張り、全身苔に包まれたけやきの木が力強く立っている。樹齢八〇〇年ともいわれる大けやきを見上げると長い長い歴史が感じられる。 
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御幸の橋 Miyuki-no-hashi 

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 愛媛県西部を流れる肱川(ひじかわ)の支流川辺川。その上流域にある、四方を山に囲まれ面積の八割以上が山林という自然豊かな川辺町には、明治から平成にわたって架けられた八つの屋根付き橋が点在する。
 川辺川上流、秋知川に架かる「御幸の橋(みゆきのはし)」はその中でも最も古く、天神社の参道として安永ニ(1773)年に創設された。坂本龍馬が脱藩の際に渡ったという伝説も残る。
 現在の橋は明治一九年の大洪水により流失したが、祭礼に合わせるため氏子達の手によって再建されたもの。欅(けやき)材が使われ、屋根は杉皮葺で、釘は一切使用されていない。橋の長さは八・三mあり、幅員は二・七mとやや狭い。
 歴史ある橋文化を守るため、また村おこしの一環として「浪漫八橋(ろまんはちきょう)」と名付けられ、また県の指定有形民俗文化財としても大切にされている。
 
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2007/9/13


見龍寺 Kenryuu-ji Kenryuji Temple

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 涌谷町にある見龍寺(けんりゅうじ)は、涌谷伊達家の城下町で知られる。本尊である如意輪観世音は、安慶によって造られたものといわれる。
 天正一九(1591)年、亘理重宗(わたりしげむね)が涌谷領主になった時、京都にある妙心寺の梁岩を招き、中興開山して円同寺と名づけた。寛文一一(1671)年、伊達安芸宗重の死去に伴い、法号に因んで寺号を見龍寺と改めた。
 見龍寺境内には涌谷伊達家四代宗重の霊屋(みたまや)である見龍廟がある。
 白壁の塀に囲まれており、建物は総欅素木造で向拝が付き、屋根は宝形造の銅板葺である。寛文一三(1673)年に建てられ、県の重要文化財に指定されている。
 堂の周囲には五・六代の霊屋のほか累代の涌谷伊達家の巨大な墓石などが立ちならんでいる。

 
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