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2007/2/16


向羽黒山城 Mukaihaguroyama-jyo Mukaihaguroyama Castle

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 向羽黒山城は、福島県会津美里町にあった城である。
 永禄四(1561)年、向羽黒山城は黒川城主芦名盛氏が隠居城として築城を開始し、7年の歳月をかけて完成させたという。
 この当時、芦名盛氏は会津を統一した。
 東方では天文二十(1550)年、三春城主田村隆顕と結び安積郡に進攻し、仙道地方への発言力を強め、南郷地方へ進攻した佐竹氏と次第に対峙するようになっていった。
 しかし、天正二(1574)年、嗣子盛興が死去すると、盛氏は向羽黒山城を廃城とし、黒川城に戻った。以後、芦名氏は次第に衰退し、伊達氏に滅ぼされた。
 現在、城跡のある山全体が白鳳山公園として整備されている。
 向羽黒山城は、往時の芦名氏を思い起こさせる、古城である。
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2007/1/30


名越切通 Nagoe-kiridooshi Nagoe-kiridoshi

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 名越切通(なごえきりどおし)は、神奈川県鎌倉市と逗子市の間に存在する古の要路である。
 鎌倉にはいくつかの切通し(防衛の為の人工的要路)がある。名越切通は、中でも特に鎌倉七口と言われた切通しの一つであり、房総・六浦方面への要路であった。
 難路であったため、ナゴエの名がついたと言われている。
 鎌倉の土木遺構の代表とされる300mに渡って残る大切岸は、主に石切り場の跡で、この切通しにはとりわけ強固な防御施設が整えられていた。
 江戸時代以降、朝夷奈切通(あさいなきりどおし)に交通の中心が移ったため手を入れられる事が少なく、七切通の中で最もよく旧状を留めている切通しである。
 名越切通は、鎌倉時代の古道の雰囲気を今に残す、国指定の史跡である。
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朝夷奈切通 Asaina-kiridooshi Asaina-kiridoshi

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 朝夷奈切通(あさいなきりどおし)は、神奈川県鎌倉市十二所と横浜市金沢区の間にある古代の要路であり、国指定の史跡である。
 鎌倉にはいくつかの切通し(防衛の為の人工的要路)がある。朝夷奈切通は、鎌倉七口と言われた切通しの一つであり、鎌倉と金沢・六浦を結ぶ要路であった。
 仁治二(1241)年、執権北条泰時が自ら指揮し、朝比奈三郎義秀が一夜で切り開いたという伝説から、この名が付いた。
 作られた背景には、当時の北条氏と三浦氏との争いがある。北条氏が三浦半島を通らないで房総に出るためには、六浦港へ連絡する道が必要だったのである。
 朝夷奈切通は、往時の雰囲気を色濃く残しており、鎌倉時代の文化と生活を我々に伝えてくれる古道である。
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2007/1/25


鬼の城 Ki-no-jo Ki jo Castle

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 「鬼の城」は、標高400メートルの鬼城山山頂付近に築かれた古代朝鮮式山城。岡山県の現総社市に位置する。
 文献「鬼ノ城縁起」によると、おとぎ話「桃太郎」の鬼の源流とされる温羅(うら)が住んでいたところとされ、桃太郎伝説ルーツかと推測される。
 「温羅は百済の王子で、吉備国にやって来てこの地に居を構え、しばしば西国から都へ送る物資を奪ったり婦女子を略奪したので、人々は恐れおののいて「鬼ノ城」と呼び、都へ行ってその暴状を訴えた」。これが一般に温羅伝承と呼ばれる逸話であり、地名の由来でもある。
 城の石積の城壁や土塁の長さは約2.8キロメートル、城内は30ヘクタールにもおよぶ広大な山城である。ハイキングコースとして最適で、眺めも最高、眼下に吉備の国の中心が一望できるという。
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鬼の差し上げ岩 Onino-sashiageiwa Onino-sashiageiwa Rock

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 岡山県の「鬼の城」という山城付近には、おとぎ話「桃太郎」にゆかりのある史跡が数多くある。「鬼の差し上げ岩」もそのひとつである。
 鬼の城から約3キロ離れたところにある岩屋寺という小寺には、たくさんの花崗岩の大きな岩があり、それぞれに名前が付けられている。その代表が「鬼の差し上げ岩」。大きさはおよそ縦15メートル、横5メートル、厚さ5メートル。訪れる人が言葉を失うほどの巨大さだ。温羅(うら)がこの巨大な岩を差し上げて岩窟を掘り、棲みかにしたと伝えられるところからこの名がついたと言われている。
 岩の窪みは、持ち上げたときに出来たと伝えられ、「鬼の手形」と呼ばれる。また、この地の岩屋という地名も、この岩窟に由来すると言われる。
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熊野古道 Kumano-kodou The Ancient Road of Kumano

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 熊野古道は、三重県東紀州にある、石畳の美しい道である。
 熊野古道は、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の、参詣道のひとつであり、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)に詣でるための道である。
 古代、熊野周辺は神々の住む聖地、死霊の集まる再生の地として崇拝される場所であった。
 1090年、白河上皇の熊野行幸をきっかけに熊野三山への参詣が頻繁に行われるようになった。江戸時代に入ると、熊野詣は「蟻の熊野詣」と言われるほど広く庶民の間で行われるようになった。
 明治維新後、神仏分離令により熊野古道周辺の神社の数は激減。熊野詣の風習も殆どなくなってしまった。
 熊野古道は、浄土と再生の地として信仰されてきた熊野へ至る祈りの道として、地域の中で今も生き続けている。
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野方遺跡 Nokata-iseki The Ruins of Nokata Village

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 野方遺跡は、福岡県福岡市西区野方にある、弥生時代後期から古墳時代にかけての集落跡である。
 標高17〜20mの扇状地にあり、南北600m、東西200mの南北に細長い台地にある。
 弥生時代には大小2つの溝を巡らし、大きい環濠には住居が10軒程度たてられていた。小さい環濠の中には高床式倉庫が建てられ穀物等を貯蔵していた。
 古墳時代になると300基以上の住居が建てられた。墓地は住居から離れ、住居と墓地を区分けしていたことがわかる。
 環濠からは、土器、石器、鉄器に混じって、サメ、タイ、スズキなどの魚類や貝類、鳥類、動物の骨が出土しており、石棺からは鏡、玉、太刀、管玉、ガラス玉等が出土している。
 野方遺跡は、古代日本の営みを想像出来る、歴史的で感慨深い場所である。
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2007/1/23


椋本の大椋 Mukumotono-Oomuku The Giant Aphananthe Tree of Mukumoto

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 椋本の大椋(おおむく)は、三重県安芸郡芸濃町にある、国指定天然記念物の木である。
 樹齢1500年以上、高さ18m余、周囲8mの椋の巨木である。兵庫県、三日月の椋に次いで全国で2番目の大きさを誇る。
 かつては北側に更に大きな幹が生育していたが、明治初期の暴風により折れてしまった。
 この倒壊により、幹の大きさは約半分になったとも伝えられる。その頃の幹周りは、なんと14mほどもあったらしい。
 嵯峨天皇(809〜822年)の頃、征夷大将軍坂上田村麻呂の家来、野添大膳父子が伊勢路を流浪し、この地に逃れた時、巨大な「椋」の木を見つけ、その下に草庵を作って住んだと伝えられる。
 悠久の時と樹の生命力が作り上げた主幹はただならぬ姿であり、強烈な印象と風格を感じさせる。
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