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2008/9/5


知多 二子塚 Chita Ftago-zuka 

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 愛知県阿久比町(あぐいちょう)は、知多半島のほぼ中央に位置しており、古くから機織の町として栄え、繊維工場の跡も残されている。
 阿久比町は、知多半島にある市町村の中で唯一、海に面していない町である。ここの宮津地区にあるのが二子塚(ふたごづか)。古墳時代中期に作られたものとされ、全長36メートルを誇る、知多半島唯一の前方後円墳で、町指定文化財となっている。
 二子塚は第二次世界大戦中の開墾などによりかなり変形されており、特に胴のくびれた部分は大きく削られている。古墳の周りは堀がめぐらされ、毎年7月になると、地元の子供たちがホタルの幼虫を放流する場所でもある。

 
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2008/6/12


蚕の社 Kaiko-no-yashiro Kaiko no Mori

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 京都府は太秦にある蚕の杜(かいこのもり)は、正式名称を木島坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)といい、木の嶋神社(このしまじんじゃ)と呼ばれ、親しまれている。
 いわれは古く、推古一二(604)年の創建とされている。渡来人の秦氏(はたし)が養蚕と織物の神を祀ったのがはじまりといわれており、摂社である養蚕神社(こがいじんじゃ)が名前の由来とされている。幾たびの戦火に伴い社殿は焼失、現在の社殿は明治以降に再建されたものだという。
 社殿の西側に元糺の池(もとただすのいけ)という湧水池がある。その池の中央に、三柱鳥居(みはしらとりい)と呼ばれる、京都三鳥居の一つとされる珍しい鳥居がある。柱が三本あり、上から見ると三角形をなし、中央には組石で神座(かみぐら)が作られている。起源は不明だが、現存のものは天保二(1831)年に再建されたものだといわれている。
 蚕の杜は、現在でも製糸機織業者の信仰が篤く、町の氏神様としても親しまれている。
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2007/12/26


秩父銘仙 Chichibu-meisen Chichibu Meisen

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 秩父銘仙(ちちぶめいせん)は、埼玉県秩父市で古来より生産されている知々夫絹を用いた絹織物である。
 崇神天皇の御代(紀元前149~紀元前29)に、知々夫彦命(ちちぶひこのみこと)が周辺住民に養蚕と機織の技術を伝えたことがその起源といわれる、大変古い歴史を持つ織物である。
 元来、屑繭や玉繭から採取した太い糸を緯(よこ)糸に用いた丈夫な織物で、養蚕を営む人々の自家用として織られていた。
 ただ、そのとにかく丈夫なことや平織りで裏表がなく、表が色あせても裏を使って仕立て直しができるという特徴などが庶民の間でもてはやされ、発展していくこととなる。
 武士の間でも大いに珍重され、古来よりの伝統を受け継ぎつつ、品質の良いものへと発展を遂げ、明治から昭和初期に掛けて最盛期を迎えることとなった。
 その豊かなデザイン性で、明治や大正の先人達の心を射止めた織物は、今も伝統を守りながら大事に織り上げられている。
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2007/10/15


機滝 Hata-daki 

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 四国中央市のほぼ中央部に、標高1453mの赤星山がある。この山を源流として土居町を南北に瀬戸内海へ流れ込む大地川は、皇子渓谷または赤星ラインと呼ばれ、大小7本の滝が様々な表情を見せ、四季折々の渓谷美で訪れる人々を楽しませている。
 「機滝(はただき)」は、その最も下流にある滝。松山自動車道土居IC付近の国道11号線から、赤星山登山口の標識に従い林道を車で10分ほど走ると、終点の駐車場に到着する。そこからは徒歩で、やや険しい皇子渓谷の沢沿いの道を40分ほど上れば、機滝にたどり着く。高さ17m、幅20mの広い岩壁から落下する4筋の滝は、その名の通り、機織り糸のようで美しい。立ち上がる水煙は靄(もや)となって辺りを漂い、幻想的な雰囲気をかもし出す。
 機滝のすぐ上流には紅葉滝と布引滝が連続してあり、さらに上流の稲妻滝、千丈滝、中折滝、そして最終の天竜滝へと続く。
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2007/9/14


細見華岳(人間国宝) Hosomi Kagaku 

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 大正一一(1922)年兵庫県生まれ。織物師。
 昭和一二(1937)年、十五歳の時に京都西陣の織物師、波多野諦観に師事。綴れなど、各種の織の技術を学ぶ。
 昭和二四(1949)年には独立、綴織工房を立ち上げる。その後は喜多川平朗や森口華弘に指導を受けながら、社団法人日本工芸会に所属し、綴や絽、紗、交織など様々な織技法作品を日本伝統工芸展を中心に発表していく。
 そうした活動の中、昭和三九(1964)年には日本伝統工芸染織展にて日本工芸会会長賞、昭和六十年には日本伝統工芸展で同賞に輝くなど、その匠の技術は高く評価され、平成九(1997)年に綴織の重要無形文化財保持者に認定、人間国宝となった。
 綴織は日本人の持つ指先の感覚が重視される技法だといわれる。
 氏の作品は、永年培われたそうした高度な製織技術の確かさの中に、現代的で気品に満ちた温雅な作風を感じられる逸品として、高く評価されている。
 匠の手により、今日もまた伝統が綴られていく。
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2007/9/7


首里の織物 Syuri-no-orimono The Shuri Textile

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 首里(しゅり)の織物は、約五百年に及んだ琉球王朝の首都であった現在の那覇市、首里を中心とした地域に伝わる織物である。
 中国や東南アジア諸国などの影響を受けながらも独自の発展を遂げ、歴史上、芸術上の価値も高く、地域的特色を色濃く残した沖縄を代表する織物である。
 染色には琉球藍を主体とした植物染料が用いられ、製織は地機および高機の投げ杼(なげひ)の手織りによって行われる。
 現在、首里花織、道屯織、花倉織、諸取切、手縞、煮綛芭蕉布、花織手巾の7種類の技法が伝えられている。
 高度な技術による優れた意匠の織物は、主に貴族や士族の衣服として愛用され、一つの地域に伝承される染織技法としては、多様性や洗練度において、他に類を見ない特徴を持つものでもある。
 琉球王朝時代においては、織手はほとんどが士族の妻やその娘達であり、彼女達の誇りある手仕事の一つであったという。
 今に伝えられ、織り上げられる逸品には、彼女達の誇りも一緒に織り込まれているに違いない。
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2007/8/27


群馬 桐生織 Gunma Kiryuu-ori Kiryu Textiles

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 群馬の桐生織(きりゅうおり)は、群馬県桐生市に伝わる伝統的な織物である。
 800年頃、宮中に仕える白滝姫が桐生の山田家に嫁に来て、村人に養蚕や機織りを伝えたのが始まりと伝承されている。
 鎌倉時代末の新田義貞の旗揚げをはじめ、関ヶ原の合戦では、徳川家康が桐生の白絹の旗を用いた事などから、桐生織物はその名を全国的に高めることになった。
 18世紀中頃、京都から技術を導入して発展し、19世紀前半には幕府の保護もあって高級織物を生産するようになり、今日につながっている。
 西の西陣、東の桐生とも言われ、昭和初期までは日本の基幹産業として高級品織物を中心に、繁栄してきた。
 現在、和装離れから産業として苦境に立たされているが、先端科学技術の導入など、今も努力を怠らずに独自の新製品開発を続けている。
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2007/8/2


機織沼 Hataori-numa Hataorinuma Pond

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 宮城県東和町錦織にひっそりと佇む機織沼(はたおりぬま)は、伊達政宗に敗れた葛西一族の悲話を秘めた、かつては人はもちろん舟も入れない古来からの霊沼だった。
 往時、沼の南西の小高い丘の上に湖水城があり、西郡新左衛門が城主であったが、天正十八(1590)年に起こった葛西大崎一揆に葛西一族として参戦、伊達氏との戦いの中、佐沼城で討死する。
 新左衛門の奥方であり、機織の名人だった錦ノ前は知らせを受けるや敵に捉えられることを良しとせず、城に火を放ち、沼に入水してしまう。
 その後、晴れて沼が凪の日には、昼夜を問わず沼底から機を織る音が聞こえ、その音を聞いたものには災いが訪れると言われるようになった。村の人々は恐れ、畔に弁才天を祭った祠を建て錦ノ前の霊を慰めた。以来、機を織る音は聞こえなくなったという。
 そうした戦国の悲話に彩られた沼も、今では年中釣りを楽しむ人で、静かな水面を賑わせている。
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