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2008/6/30


小牧山城 Komakiyama-jou 

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 小牧山城(こまきやまじょう)は、愛知県小牧市の市街地西に位置する、標高約八六メートルの小牧山にある。
 桶狭間の合戦ののち、尾張平野の中に孤立した丘陵と、その麓を利用し、永禄六(1563)年に織田信長が築いた平山城である。
 信長の死後、天正一二(1584)年「小牧・長久手の戦い」において、豊臣秀吉と戦った織田信雄(のぶかつ)・徳川家康連合軍が大規模な改修を施し陣城とした。
 その後、小牧山は尾張藩によって入山が禁じられた。明治以後もこの規則は守られ、明治二二(1889)年に尾張徳川家に払い下げられた。
 昭和五(1930)年に尾張徳川家の徳川義親(とくがわよしちか)から小牧市に寄贈されて以後、自然公園として整備された。
 現在は城址公園となり、削平地や復元された空堀、土塁、旧虎口跡などがある。また山頂に展望台がわりの模擬天守が建っており、内部は歴史館となっている。
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平林城 Hirabayashi-jou 

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 平林城(ひらばやしじょう)は新潟県岩船郡神林村平林に位置する中世時代の居城跡である。別名加護山城(かごやまじょう)とも呼ばれている。
 築城年は不明であるが、一四世紀頃の南北朝時代に存在した。最初は南朝派の豪族平林氏の居城であったが、のちに北朝派の色部氏が制圧した。
 慶長三(1598)年に上杉景勝の会津移封により廃城となり、周囲の人口も激減したため風化していった。
 数多くの遺構が残っており曲輪、堀切、土塁、空堀、虎口、馬洗い、首切り清水などが発掘されている。
 中世史を理解する上に重要な史跡として、昭和五三(1978)年、国指定の史跡名勝記念物となった。
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2008/5/14


二曲城 Futoge-jou 

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 鳥越城と共に、加賀一向一揆の拠点となった二曲城(ふとうげじょう)は、大日川を挟んで鳥越城の対岸にある、やや低い山の尾根に築かれた山城である。築城については定かではないが、一説によると永禄一三(1570年)頃、豪族二曲右京進(ふとうげうきょうのしん)が築城したといわれている。
 本願寺より派遣された鈴木出羽守(すずきでわのかみ)が鳥越城を築いた後は支城として鳥越城を補佐し、天正八(1580)年一一月に織田軍に対し落城するまで抵抗した。
 規模はやや小さいが、登山道入り口には虎口の土塁、頂上には平削地があり、鳥越城を背後から見守る砦の役目をしていた面影が今も残されている。
 麓には親水公園が広がり、登山道はよく整備されている。近くには歴史館があり、一向一揆の歴史などがわかりやすく伝えられている。
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鳥越城 Torigoe-jou 

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 西側に大日川、東側に手取川が流れる、標高三一二mの見晴らしの良い鳥越山。その山頂にある鳥越城(とりこえじょう)は、天文年間(1532~1554)に鈴木出羽守(すずきでわのかみ)が加賀一向一揆の軍事拠点とするために築いたといわれる。
 ここを拠点に、白山山麓に幾つもの砦を築いて織田軍の侵攻に備えたが、天正八(1580)年落城した。その後も一門衆は激しく抵抗したが、二年後に完全降伏したという。
 枡形の本丸虎口には石垣が積まれ、趣のある高麗門と櫓門が再現されている。土塁に囲まれた本丸を中心に南北に曲輪が配置され、南側には二の丸、三の丸がある。本丸と二の丸は防備を固めるために掘られた、深い堀切があり歴史を物語る。
 国の史跡として各所の整備や復元がされており、見応えのある山城である。
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2007/10/31


一関城 Ichinoseki-jyou Ichinoseki Castle Ruins

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 天正年間(1573〜1591)末期、豊臣秀吉の奥州仕置によって葛西氏が滅んだ後、一関は豊臣家臣の大名・木村氏を経て伊達氏が領有した。
 江戸幕府の開府の後は、慶長九(1604)年に伊達政宗が叔父である留守政景を一関に移し、さらに寛文年間(1661〜1672)には、政宗の10男・宗勝が入ったが、伊達騒動により宗勝は土佐に配流となった。天和二(1682)年、田村建顕が岩沼から移封となり、以後11代続いて明治を迎えた。
 本丸は千畳敷という標高約90メートル、100メートル×50メートルの長方形である。本丸と同一レベルに続く丘陵に空堀が1カ所認められ、本丸以外は適度な落差で階段状に各郭が配されていたと思われる。
 千畳敷北東に虎口があり、南東には若干の高さの方形があって矢倉などの施設が想像され、西には小山があり脇に田村神社が奉られている。
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2007/4/24


富山城 Toyamajo 

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 富山城は、富山県富山市にあった城である。現在は、富山城址公園となっている。
 天文一二(1543)年、越中守護代・神保長職の家臣とされる水越勝重が、藤井村に築城したのが最初と言われる。
 富山城は神保家、上杉家、織田家の抗争の地となり、やがて織田家家臣の佐々成政が入城したが、関ヶ原の合戦後は加賀前田氏の支配下に置かれた。
 寛永一六(1639)年、前田氏支藩として富山藩が創設され、富山城は藩主居城となり明治まで続いた。維新後、廃城となる。
 現在、城跡は城趾公園となっている。本の丸南側の堀と石垣、本の丸枡形虎口の石垣上には三層の模擬天守が建てられており、天守内部は郷土博物館に、三層の隅櫓風の建物は美術館になっている。
 富山城趾は、戦乱の歴史を現代に遺す史跡である。
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2007/3/19


鷲城跡 Washi-jyou-ato Washi Castle Ruins

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 築城年代は不明だが、南北朝時代の康歴二(1380)年以降、小山義政の乱当時の、小山氏の戦乱の拠点として整備されたとされる。
小山氏は、鎌倉時代に下野国守護職に代々任じられた武家の名門。南北朝時代当時、小山義政は、宇都宮基綱と下野守護職とその所領をめぐって対立関係にあった。裳原の合戦で基綱を打ち破るも、鎌倉公方足利氏満が兵を集めて鷲城に攻め入ったため、義政は降伏してしまったという。
しかし、義政は祇園城を拠点に長福城、宿城、岩壷城などを支城にして、再び反旗を翻した。これに対し、足利氏満はさらに兵力を増員し、再び小山へ攻め込み、義政は遂に降伏。鷲城は兵火によりその歴史の幕を閉じた。
現在、鷲城跡には高さ2メートルの土塁や櫓台、虎口などの遺構が残され、戦乱の舞台となった歴史的価値のある史跡として存在している。
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2007/3/5


平戸城 Hirado-jyou 

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 別名亀岡城と呼ばれ、平戸瀬戸に突出した平山城。
 第29代天祥鎮信は、平戸古城の再築(日の岳城を1599年築城、1613年焼失)を図り、山鹿素行と共に設計を行い、1704年、30代雄香棟が着工、1718年31代松英篤信の時、亀岡城として落成した。
 建物の遺構は、北虎口門・狸櫓が現存し、これら以外に三層の天守・見奏櫓・乾櫓・地蔵坂櫓・懐柔櫓が復興されている。また、北虎口門内、狸櫓の北側にある石狭間のある城壁が残っている。
 平戸城は山鹿流の軍学に基づいて築城されたが、これを検証しながら城内を見て回るのもおもしろい。 特に、二の丸の虎口が屈折が多い点や同じく二の丸東面の横矢枡形も山鹿流の特徴を良く表している。
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