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2008/8/4


【徳(德)】 Toku, Tadasu Virtue

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 「徳」の字が表す元の意味は、後世の「徳」の倫理概念ではなく、原始的なアニミズムと呪術の世界へ戻らなければなりません。
 「行」という字は縦横の交差点を象っていますが、「徳」の部首となっている「彳」は、「行」の左半分、つまり分岐を意味します。人が多く通る場所であり霊的に大事なところです。自然にほかのところより事故が多発するので、悪霊をはらう対象にもなります。
 旁(つくり)の横向きの「目」の上部は「蔑」や「省」と同じように呪飾を表しています。「省」はある地域・国に対しての武威をあらわすものですが、「徳」の右上の部分と同じ由来をもち、呪力のある目で見回ることを表しています。特に「徳」の字は、「彳」の要素を持つことから、呪飾の目の威力で行われる巡察の対象が、交差点や分岐にある悪霊であり、それを祓いただすことを示します。
 一般的に旧字体のほうが古代の字体に近いのですが、この「徳」は、旧字体よりも一画少ない常用漢字の字体は金文に近い形です。
 さらに初めて「心」の形が加わったのは、殷から周への革命の直後、西周前期の青銅製の器である「大盂鼎」(盂はこの鼎を使った殷の人の名前)に刻まれた290字の長い銘文で、その時から「徳」の意味するところが、目の呪力より精神的・内面的な方向へ変わりました。
 
■右 徳・甲骨文(こうこつぶん)
■左 徳・金文(きんぶん)
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2008/3/24


亀塚古墳 Kameduka-kofun Kamezuka Tomb

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 亀塚古墳(かめづかこふん)は、大分県大分市坂の市の町を流れる丹生(にゆう)川河口近くの左岸に位置する、丹生台地の東端にある古墳だ。
 前方部を南に向ける前方後円墳で、古墳時代中期の五世紀前半に築かれたものとされる。また、周辺には別な古墳もいくつかあり、一帯は亀塚古墳群としても認知されつつある。
 墳丘は三段に築成され、全長は一二〇m、後円部径六四mを誇り、県下最大の前方後円墳として知られている。
 地域一帯は、古くは豊後水道で縦横に船を操り活躍した海部民(あまべのたみ)の支配地域であったとされ、その首長が埋葬されていたと考えられている。
 平成八(1996)年に国の史跡に指定、同時に発掘調査も開始され、まが玉や土器、ガラス玉、剣、方位磁石など百五〇点以上の出土品があった。
 調査後は公園としての整備が進められ、円筒埴輪がめぐらされるなど、古墳も往時を髣髴とさせる姿へと復元され、人々の憩いの場所になっている。
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2007/11/22


文様 七宝(シッポウ) Monyou Shippou 

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 七宝(しっぽう)とは、同じ円を円周の四分の一ずつ重ねていく和文様である。
 和文様とは、平安時代以来、公家の服装・調度品や装飾に用いられた形、色、構成などに独自の優美な様式を持つ図柄の総称である。
 同じ大きさの輪を互いに交錯させて規則正しく繋げた図形で、四方に広がって無限に続いている。
 縦横に広がるので「十方」ともいい、仏教でいうところの金、銀、瑠璃、玻璃(はり)、しゃこ、珊瑚、めのうの七種の財宝、つまり七宝と音が似ているところから転訛したものとされる。
 七宝の円形は円満を表し、吉祥文様の一つで、そのイメージが定着して宝尽くしの一つに数えられるようになった。
 文様・七宝は、刺繍や友禅染の図案の中で空間を埋め、華やかな色彩を加える役割を果たしている、伝統的な和文様である。
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2007/10/17


信楽院 Shingyou-in Shingyoin Temple

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 信楽院(しんぎょういん)は、滋賀県日野町のほぼ真ん中にある浄土宗の寺で、この地方の領主であった蒲生氏(がもうし)の菩提寺。貞和五(1349)年に蒲生高秀が小御門城(こみかどじょう)に阿弥陀如来を安置する小堂を建立したのが起源で、その後、音羽城、中野城と蒲生家の本城内に移されて来たが、中野城が廃されるに際し、定秀の隠居所であった現在地に移された。
 境内はさほど広くはないが、元文四(1739)年に建てられた県指定文化財の本堂などが目立つ。寺宝に伝恵心(でんえしん)作の観音像がある。本堂の天井には、日野町出身の著名な京狩野派画家・高田敬輔により、縦横一一メートルにおよぶ荒れ狂う巨大な竜が描かれ、睨みを利かせている。
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2007/8/15


竿燈祭 Kantou-matsuri 

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 東北四大祭りの一つ、竿燈祭(かんとうまつり)は秋田県秋田市で毎年8月に行われる。
 竹竿を、縦横に組み、たくさんの提灯をつるした、大きな竿燈を操り、お囃子にあわせて練り歩くもので、夏の病気、穢れ、邪気を追い払うためのねぶり流しとして行われている。
 元々は短冊や人形を流す行事であったが、お盆に使われた高灯籠を門前に掲げた風習や、蝋燭の普及などに伴い、提灯を掲げたものが組合わされ発展し、江戸時代中期には現在の形になったと言われる。
 大人用の大若と呼ばれる竿燈は長さ12m、重さ50kにも及ぶが、持ち手は肩、腰、額など、体のいろいろな部分を使い、バランスを取りながら竿燈を操る。その姿に、沿道を埋めた人々は魅了される。
 幾重にも連なった提灯の灯りが夜空を照らす様は美しく、東北の夏の夜を彩る祭事である。
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2007/7/20


平方どろいんきょまつり Hirakata-doroinkyo-matsuri 

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 平方(ひらかた)どろいんきょまつりは、埼玉県上尾市平方の上宿地区で毎年夏に行われる奇祭である。悪疫退散、五穀豊穣を祈念して行われる水と土の荒まつりだ。
 起源は不明だが、大正十二(1923)年を最後に途絶え、昭和四三(1973)年に復活、今に伝承されている。
 「いんきょ」と呼ばれる白木の神輿に水を掛け、大地に縦横に転がして、人も神輿も泥だらけにする迫力ある祭りだ。氏子の家では庭先に水を撒いて「どろいんきょ」の用意をする。
 夕方には、神輿を山車に見立てて芝居の主人公に扮した若衆を乗せ、町内総出で通りを練り歩く。
 午後1時半から始まるこの祭りは、最後に神輿のお山納めで締めくくる。午後9時半まで実に8時間半もかけて行われる、皆が泥だらけになってしまうという一風変わった祭りである。
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2007/6/6


北海道 旧ロシア領事館 Hokkaidou Kyuu-rosia-ryoujikan 

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 旧ロシア領事館は、北海道・函館市にある急勾配の幸坂(さいわいざか)を登りつめた先に立つ、木造レンガ造りの建造物。
 安政元(1855)年の日露和親条約に基づき、安政五(1859)年に初代領事が着任した際に元町の現ハリストス正教会敷地内に領事館を建てたが大火で焼失。その後現在地で領事館の建設が行われたがこの建物も明治四〇(1907)年に焼失。現在の建物は、明治四一(1908)年に再建されたものである。
 赤レンガの外壁と、白漆喰による2階の縦横縁取りや玄関の隅石風デザインとのコントラストが美しい。正面の玄関部1階は、寺院風の唐破風や組物を見せる柱頭など、和風意匠との融合が見られる点が特徴だ。
 この建物は、昭和十九年まで正式にロシア領事館として使用されていた。現在は内部を見学することはできないが、外観だけでも、帝政ロシア時代の華やかさをうかがえる建造物である。
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2007/5/22


織物 Orimono 

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 染織ともいい、糸を縦横に一定の規則によって交差させ、隣の糸と空間がないように織る布のことを指す。
 縦糸と横糸を交互に組み合わせた平織り、斜めの線を出すことができ、地厚の織物が作れる綾織り、糸の交差の間隔を隣り合わないように織られ、手触りがよく光沢がある朱子織りの3つを織物の三原組織といい、織物の基礎とされている。
 複数の種類の繊維を使い織ることを混用といい、糸の製造段階で、組み合わせることを混紡、縦横の糸を異なる糸で織ることを交織という。
 重量の単位を目付と呼称し、1目付は、4.3055g/㎡であるが、和装品用の織物では、1反の重量をグラムで表す。
 日本の織物の歴史は古く縄文時代に始まったとされ、魏志倭人伝に、3世紀ごろには蚕から糸を紡いだ絹織物が生産されていた記録が残っている。古事記や日本書紀にも、技術者が渡来して中国大陸の技法を伝えたことが記録されている。
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日本の美意識。

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