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2008/6/30


羽衣石城 Ueshi-Jo 

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 羽衣石城(うえしじょう)は、鳥取県東伯郡湯梨浜町にあった山城である。
 正平二一(1366)年、南条貞宗によって標高376mの羽衣石山に築城され、以後、南条氏の拠点として使用された。
 山陰道と東郷池に臨む東伯耆の要衝にあり、尼子氏や毛利氏と激しい攻防を繰り返した。
 慶長五(1600)年、関ヶ原の合戦で南条氏が敗れ、羽衣石城は廃城となる。
 昭和六(1931)年、南条氏の子孫の手により、山上に模擬天守が建てられた。
 現在、羽衣石城にはよく整備された模擬天守と物見櫓風の展望台があり、山頂部に本の丸、二の丸、三の丸を配置し、主郭部から西へ削平地が幾段も置かれ、東の尾根には2筋の堀切が残る。
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2008/5/22


勝龍寺城 Shouryuuji-jou 

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 京都府の「勝龍寺城(しょうりゅうじじょう)」は、延元四(1339)年に足利尊氏に属していた細川頼春が北朝方の前線基地として築いた。これは京都盆地の南西部に位置する為である。
 応仁元(1467)年の応仁・文明の乱では、細川勝元を総大将とする東軍に対抗する為に畠山義就が城主となった。戦国時代になると岩成友通が城主になるが、永禄一一(1568)年に織田信長が上洛の際、柴田勝家の軍勢に攻撃され落城。その後、信長から勝龍寺城を与えられた細川藤孝(幽斎)は城の大修築を行なったという。
 この勝龍寺城は、幽斎の子である忠興と明智光秀の三女・玉(珠)が祝言をあげた場所と伝えられている。明智玉は、後にキリシタンとなり、ガラシャという洗礼名のもと、最後までその信念を貫き通したことで知られる。
 天正一〇(1582)年、山崎の合戦で落城、その後に廃城となってしまう。
 現在は本丸などが復元され、「勝龍寺公園」として整備され、人々に広く親しまれている。
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2008/5/14


高岡城 Takaoka-jou 

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 広大な堀を持つ城として有名な高岡城(たかおかじょう)は、加賀藩二代目藩主の前田利長の隠居城として慶長一四(1609)年に築かれた。城の設計にはキリシタン大名として有名な高山右近が関わっている。
 利長はその五年後に病気で亡くなったため、未完成のまま一国一城令が出された元和元(1615)年を迎え、廃城となった。その後は加賀藩の蔵として利用され、人々の立ち入りは禁止されたという。
 面積の約三割が堀になっていて、掘り出された土は土塁として利用されており、今も随所に石垣などと共に残されている。
 明治八(1875)年に高岡古城公園として開放されて以来、珍しい水濠公園として、また四季を通して古城の趣を満喫できるため、憩いの場として市民に親しまれている。
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2008/2/27


後閑城 Gokan-jou 

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 後閑城(ごかんじょう)は、群馬県安中市にあった城である。
 文安四(1447)年、依田内匠頭忠政が築城したとされ、依田氏の後、新田氏が後閑一帯を領し、永禄二(1559)年、新田信純は武田氏の下へ去った。
 信玄は、真純と改めた新田信純に上条家を継がせ、永禄一〇(1569)年、後閑城へ入れた。
 天正一〇(1582)年、武田氏が滅亡すると、信純の長男・新田信重は厩橋城の北条(きたじょう)高広に従い、後閑姓となっていた次男と三男は後北条氏に属し、両後閑と呼ばれた。
 天正一八(1590)年、豊臣秀吉の小田原征伐において、後閑城も大道寺政繁の指揮に入ったが、北条氏の滅亡と共に廃城となった。
 現在、城跡は後閑城址公園として整備されており、四季折々の草花が楽しめる。
 後閑城は、関東の要衝にあった新田氏ゆかりの城である。
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2007/10/31


安芸郡山城 Aki-kooriyama-jyou Aki Koriyama Castle Ruins

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 安芸郡山城(吉田郡山城)は、広島県安芸高田市吉田町にあった城である。
 建武三(1336)年、吉田荘の地頭となった毛利時親が、郡山南東の一支尾根に築城した。以来、戦国時代の元就までは、この城を居城とした。
 天文一〇(1541)年、吉田郡山城の戦いでは、尼子晴久率いる2万の軍に攻められるが、これの撃退に成功している。
 天正一七(1589)年、毛利氏は広島城へその居城を移し、その後、元和年間の一国一城令により廃城となった。
 現在、城の破却で遺構はほとんど壊されているが、郡山全山に多数(約130)の曲輪(くるわ)が今も残り、この城の規模や構造が容易に推定できる。
 安芸郡山城は、郡山全体を城郭化した大規模な山城であった。
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2007/10/30


座喜味城跡(世界遺産) Zakimi-gusuku-ato Zakimi Gusuku Ruins (World Heritage Site)

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 座喜味城跡(ざきみぐすくあと)は、沖縄県中頭郡読谷村座喜味にある城跡である。
 築城家として名高い護佐丸が、15世紀初期に築いた城といわれている。城郭の外周は365メートル、城郭内面積は7385平方メートルの、中規模城塞であった。
 出土品から、16世紀頃に廃城になったと推定されている。
 太平洋戦争の沖縄戦では日本軍の高射砲陣地となり、戦後は米軍が通信基地として使用。沖縄返還後、史跡整備されて現在に至る。
 城壁は独特の曲線を描いて積まれた「あいかた積み」を基調とし、アーチ門とその両脇は整然とした布積みとなっており、沖縄で最も古いものといわれている。
 1972年、国の史跡に指定。
 2000年、琉球王国のぐすく及び関連遺産群の資産のひとつとして世界遺産に登録された。
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2007/10/24


青陰城 Aokage-jyou Aokage Castle

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 青陰城は、広島県尾道市因島田熊町にあった山城である。
 南北朝時代、北朝の小早川氏と南朝の河野氏が因島で激突したとき、北朝方である小早川氏に対抗する伊予衆が、東にある堂崎山城の防御の一環として築いたのではないかと言われている。
 村上水軍の地であった瀬戸内海に浮ぶ因島には、たくさんの中世の城跡があるが、この青陰城は、因島の中西部、標高277mの青影山の山頂にあり、因島村上水軍の本城となった。築城は村上三郎左衛門義弘と伝えられる。
 以後、270年間、因島村上氏によって支配されたが、関ヶ原の合戦の後、慶長五(1600)年頃に廃城となった。
 現在、平坦な本丸跡や館跡、石垣の一部などが残っている。また、青影山の北方にある金連寺は、因島村上氏の菩提寺で歴代の墓塔が残されている。
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三原城 Mihara-jyou Mihara Castle Ruins

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 三原城は、現在の広島県三原市にあった城である。国指定史跡となっている。
 三原城は、天正8(1580)年、小早川隆景によって沼田川河口付近にあった中州に建てられた城である。
 その姿が、まるで海に浮いているように見えたため「浮城」或いは「海城」と呼ばれたという。
 東は湧原川から西は現在の臥龍橋付近まで約900メートル、南北に約700メートルの広さがあった。
 隆景の死後、関ヶ原の合戦を経て紀伊和歌山藩筆頭家老の浅野忠吉が入城し、広島藩の支城として幕末まで使用された。
 明治4(1871)年、廃藩置県により廃城となる。
 現在は、石垣とお堀が残り、周辺は公園として整備されている。
 三原城は、秀吉や家康も宿泊したという要害であり、素晴らしい景観を誇った城である。
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