NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/6/30


羽衣石城 Ueshi-Jo 

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 羽衣石城(うえしじょう)は、鳥取県東伯郡湯梨浜町にあった山城である。
 正平二一(1366)年、南条貞宗によって標高376mの羽衣石山に築城され、以後、南条氏の拠点として使用された。
 山陰道と東郷池に臨む東伯耆の要衝にあり、尼子氏や毛利氏と激しい攻防を繰り返した。
 慶長五(1600)年、関ヶ原の合戦で南条氏が敗れ、羽衣石城は廃城となる。
 昭和六(1931)年、南条氏の子孫の手により、山上に模擬天守が建てられた。
 現在、羽衣石城にはよく整備された模擬天守と物見櫓風の展望台があり、山頂部に本の丸、二の丸、三の丸を配置し、主郭部から西へ削平地が幾段も置かれ、東の尾根には2筋の堀切が残る。
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2007/9/13


峰仙寺 Housen-ji 

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 峰仙寺(ほうせんじ)は、宮城県の本吉町にある古刹である。
 その創建は正平九(1354)年と伝えられ、この地方を治めていた葛西氏の家臣であった米倉持村により開基。以後、代々の米倉家の菩提寺でもある。
 それだけの歴史を持つ故、寺宝として多くの古仏像や仏画が伝えられており、中でも絹本著色佛涅槃図(けんぽんちゃくしょくぶつねはんず)は、天文八(1539)年に京都から持ち込まれたものとされ、涅槃図が物語る歴史と芸術性の高さから宮城県指定の文化財となっている。
 その他にも一六善神像図や釈迦牟尼仏坐像(しゃかむにぶつざぞう)などが、県や町の文化財指定を受け、大切に保存されている。
 寺は寺宝だけでなく、その刹容も素晴らしく、高台に位置する境内からは本吉の町を一望できる。四季の草木に彩られた庭園は手が行き届いていて、本堂や鐘堂、山門などの建物とも見事な調和を見せ、折々の情景を楽しめる。
 歴史のロマンと風情にあふれる名刹での一時は、とても贅沢なものである。
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田尻 大崎八幡神社 Tajiri Oosaki-hachiman-jinja Osaki Hachiman Shrine in Tajiri

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 田尻にある大崎八幡神社(おおさきはちまんじんじゃ)は、仙台市八幡町の大崎八幡神社、古川江合の八幡神社、岩出山の八幡神社の本家で知られ、一千年の歴史を持つ由緒ある神社である。
 神社から北に続く丘陵地は、奈良時代から平安時代にかけて大和律令国家が設けた新田柵(にったのさく)の跡とされている。
 天喜五(1057)年の前九年の役で、源頼義、義家の父子が奥州征伐の際、安倍頼時、貞任を攻め、田尻八幡北部にある天狗ケ岡で石清水八幡を祀り勝利を祈願した。その後、安倍氏を滅ぼし凱旋の途中、この地と胆沢、栗原の三箇所に石清水八幡を勧請したのがはじまりとされている。
 この神社は大崎氏の崇拝が厚かったため、正平一六(1361)年に社殿を再興し、大崎八幡と名のるようになった。
 その後、伊達政宗が大崎八幡神社を敬い、岩出山に移し、さらに仙台城下に華麗な権現造りの社殿を造営した。尚、神社は伊達家によって元のこの地に再建された。
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2007/4/20


豊田城 Toyodajo 

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 豊田城は、茨城県常総市にあった城である。現在は、僅かに城跡が残るのみとなっており、別の場所に模擬天守閣が建っている。
 この地方は、平安時代末期から戦国時代まで垣武平氏一族の豊田氏が支配し、正平元(1346)年、豊田善幹が豊田城を築いた。
 しかし、天正六(1578)年、城主の豊田治親は多賀谷政経の調略により家臣に毒殺され、豊田氏は滅亡。慶長四(1601)年、関ヶ原の合戦後に豊田郡は天領となり、豊田城も廃城となった。さらに小貝川の河川改修と耕地整理によって消滅してしまい、現在は、堤防上の二箇所に、ぽつんと城址碑が建っているのみである。
 その代わり、平成四(1992)年地域交流センターとして模擬天守が造られた。当時の豊田城とは全く違うつくりであるが、新しい「豊田城」として、地域の人々の交流の場となっている。
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2007/3/9


鹿島城 茨城 Kashima- jyou Ibaraki Kashima Castle Ruins in Ibaraki

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 鹿島城は茨城県鹿嶋市城山に位置した城である。
 鎌倉時代に鹿島政幹により築城された。鹿島氏は正平二十三(1368)年、鹿島惣大行事職に任命され、以降世襲し鹿島惣大行事家と呼ばれて隆盛を誇った。
 天正十八(1590)年、佐竹氏の南方征伐により、鹿島氏の滅亡と共に廃城となった。
 鹿島神宮の西側に位置しており。現在二の丸には高校が建ち、本丸跡は城址公園に整備され、かなりの広さを誇る。
 周辺にはまだ遺構が残り、本丸周辺を囲む大掛かりな堀は近世城郭と見間違えるほどに深く広い。水堀や土塁も点在しており、戦国の威風をとどめている。
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2007/2/15


観心寺 Kanshin-ji Kanshin Temple

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 観心寺は大阪府河内長野市に位置する高野山真言宗の寺。山号は檜尾山。関西花の寺第二十五番、新西国三十三箇所観音霊場客番。
 大宝元(701)年、役小角の手で開基、この時の寺号は「雲心寺」。弘仁六(815)年に空海により観心寺に改称され、天長四(827)年に空海の弟子、実恵により伽藍の建築が行なわれた。
 本尊の如意輪観世音菩薩坐像は空海の作と伝えられ、金堂と並び国の重要文化財である。
 南朝ゆかりの寺であり、正平十四(1359)年に後村上天皇の行在所となった。豪族楠木氏の菩提寺でもあり、楠木正成が学問を学んだ学問所跡、大楠公銅像、首塚などが残されている。
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