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2008/2/7


木牟礼城趾 Kinomure-joushi 

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 木牟礼城趾(きむれじょうし)は鹿児島県出水郡にある城跡である。
 文治二(1186)年近衛家に仕えていた島津忠久が薩摩、大隅、日向三国の地頭職に任ぜられた。忠久は家臣の本田貞親に命じて、山門院、現在の野田町、高尾野などの地区に木牟礼城を築き三州(三国)を監視した。島津忠久自身は居城することはなかったが、本田貞親は城内に竹林城を築き、ここを居住地としていたと伝えられている。
 その後、島津忠久は鎌倉幕府の信頼を厚く受け、この城を中心に島津三州支配の基礎を作ったといわれている。
 しかし、南北朝時代に入ると島津氏の総州家と奥州家両家で勢力争いが起き、木牟礼城を拠点としていた総州家の島津守久は奥州家の久豊に攻められ、城は落城してしまい、木牟礼城もその役割を終えてしまったのである。
 現在は高尾野町江内の国道3号線沿いの台地に忠久を祀る「龍尾神社(若宮神社)」があり、笠懸道、水の手口、西御門等の跡が残り、石碑が建てられている。
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2007/12/10


葛見神社の大楠 Kuzumijinja-no-ookusu 

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 葛見神社(くずみじんじゃ)は、静岡県伊東市馬場町にある神社である。祭神は葛見神(くずみのかみ)、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)、大山祗命(おおやまつみのみこと)。
 およそ900年前、葛見庄初代地頭・伊東家次が京都伏見稲荷を勧請合祀して社殿造営したと言われ、伊東家の支配地にあり、伊東家の崇敬篤く、延喜式神名帳にも記載されている古社である。
 大楠(おおくす)は、葛見神社境内にある目通り幹周り20m、樹高25m、樹齢千数百年の老木で、天然記念物に指定されている。
 全国第二の大楠で、千古の思いを湛えてそびえるその姿は、今なお力強さと勢いがある。目通りよりも広がっているので巨大感があり、木というよりは、巨大な岩を見るような迫力がある。
 葛見神社の大楠は、歴史を感じされる素晴らしい巨樹である。
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2007/10/31


安芸郡山城 Aki-kooriyama-jyou Aki Koriyama Castle Ruins

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 安芸郡山城(吉田郡山城)は、広島県安芸高田市吉田町にあった城である。
 建武三(1336)年、吉田荘の地頭となった毛利時親が、郡山南東の一支尾根に築城した。以来、戦国時代の元就までは、この城を居城とした。
 天文一〇(1541)年、吉田郡山城の戦いでは、尼子晴久率いる2万の軍に攻められるが、これの撃退に成功している。
 天正一七(1589)年、毛利氏は広島城へその居城を移し、その後、元和年間の一国一城令により廃城となった。
 現在、城の破却で遺構はほとんど壊されているが、郡山全山に多数(約130)の曲輪(くるわ)が今も残り、この城の規模や構造が容易に推定できる。
 安芸郡山城は、郡山全体を城郭化した大規模な山城であった。
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2007/5/25


函館八幡宮 Hakodate-Hachimanguu 

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 函館八幡宮(はこだてはちまんぐう)は、北海道函館市谷地頭町にある神社である。祭神は、品陀和気命、住吉大神、金刀比羅大神。
 文安二(1445)年、領主河野加賀守政道が築城した際、館の東南の隅に八幡社を建立し、創祀したのがはじまりと伝えられる。
 やがて河野氏が蝦夷に追われた後、霊告を受けて元町の河野館跡地に八幡宮を移した。
 文化元(1804)年、社地に幕府が函館奉行所を置く事になったため、会所町に遷座した。
 大正四(1913)年、現在の社殿が竣成した。聖帝造と八棟造を併せた聖帝八棟造りで、大正式八幡造の代表作と言われる実に優雅な建物である。
 毎年お盆の8月15日には勇壮な例大祭が行われ、大神輿を担いで134段の石段をかけのぼる。
 函館八幡宮は、壮麗で優美な、趣のある神社である。
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2007/5/23


旧周布家長屋門 Kyuu-suuke-nagayamon 

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 周布家は、萩藩永代家老益田家の庶流で、石見国周布郷の地頭職として周布村に住し、周布を氏としたところから始まった。藩政時代は大組士の筆頭として、1,530石余の知行地を大津郡渋木村に領していたとされる。
 この長屋門は同家萩屋敷の表門として建てられた。平屋建て本瓦葺きの建物で、東西の桁行24.91m、東端から北に折れ曲がった部分の桁行11.2m、梁間は3.96mの、道路に沿った長い建物である。
 中央から東よりに通用門を設けており、屋根の東端は入母屋造り桟瓦葺きになっている。腰部を下見板張りとし、基礎に見事な切石積みがあり、上部は白漆喰大壁造り。江戸中期の代表的な武家屋敷長屋の様式をした、素晴らしい建築物である。
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2007/5/14


郡上八幡城 Gujohachiman-jo 

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 郡上踊りでも知られる郡上の城は、鎌倉時代の承久三(1221)年、承久の乱の戦功で東胤行が美濃国山田荘の地頭となり、土着したのが起源とされている。永禄二(1559)年東常慶が城主であった時、遠藤盛数に東殿山城を攻められ落城したといわれる。
 東殿山城に入った遠藤盛数は、そこがあまりにも険峻であった為、新しく八幡山に城を築いた。その後、幾多の城主が変わり増築が行われた。城は東殿山南端、標高350メートルの八幡山山頂に天守曲輪を置き、桜の丸・松の丸の郭、山麓に二の丸を構えている。
 青山氏の代に二の丸が本丸とされ、御殿・政庁を置いた。明治維新を迎えた後、天守台・桜の丸・松の丸の石垣はほぼ完全な形で残された。現在の山頂にある模凝天守と隅櫓は昭和八(1933)年に建てられたもので、大垣城に模して作られている。
 八幡山からの景色は、眼前に東殿山が眺められ、往事の戦いのほどが偲ばれる。
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2007/5/2


松本家住宅 Matsumotoke-Juutaku 

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 松本家住宅は、宮城県加美郡加美町にある侍屋敷である。国の重要文化財に指定されている。
 仙台藩の重臣であった奥山家の家老松本家の住宅として用いられたが、奥山家以前の地頭・古内家時代の建築だという。
 築年数は250年を越えるといわれており、宮城県中部から北部に分布する主屋と土間が分かれた家屋で、「分棟型」民家としても侍屋敷としてもかなり古いものとされる。
 建物は主屋と土間の二棟からなり、主屋は間口10.5m、奥行8.8mの寄棟造。茅葺の屋根が郷愁を感じさせてくれる。
 土間は主屋の東側に繋がっており、間口6.7m・奥行5m。こちらの屋根も、茅葺の寄棟造となっている。
 松本家住宅は、江戸の暮らしを今に伝える貴重な建築物である。
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2007/4/24


菩提所観音寺 Bodaisho-kannonji 

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 菩提所観音寺は、広島県広島市安佐北区にある史跡である。
 承久三(1221)年、承久の変で勝利を収めた鎌倉幕府により、戦功のあった熊谷氏は安芸国三入荘の地頭に任ぜられ、この地に城を築いて移り住んできた。
 その後室町期に入ってから、戦略的により優れた高松山に本拠を進め、麓に屋敷を構えた。
 熊谷氏は、屋敷と根之谷川を挟んで向かい合う位置に、一族の菩提所・正法山観音寺を営んだ。
 菩提所観音寺は大寺院であったが、熊谷氏が広島城下に移ると次第に寂れて行った。
 現在では、二間(約3.6m)四方の小さな観音堂と井戸を残すのみであり、堂内には熊谷氏の紋を刻んだ須弥壇が佇んでいる。
 菩提所観音寺跡は、熊谷氏時代の繁栄と歴史の移り変わりが偲ばれる、静かな史跡である。
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