NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/5/10


さいとりさし Saitorisashi Saitorisashi

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 さいとりさし(刺鳥刺)は、鳥取県に伝わる踊りである。
 さいとりさしとは、殿様が鷹狩に使う鷹の餌として小鳥を捕ることを意味し、また、それを仕事とする人の職名でもある。
 その昔、天下御免の鑑札をもつさいとりさしが、権力をかさにきて、各地を荒し回っていた。
 さいとりさし踊りは、このさいとりさしの横暴と世の中の封建制に反発し、民衆が酒席などで狂言風に歌や踊りを演じたものが始まりだと伝えられている。
 やがて、鳥を捕ることから転じて「嫁をとる」「福をとる」など祝狂言として伝承されてきた。
 四、五人で、そろいの法被、鉢巻き、手にトリモチの棒、腰にはこれ見よがしの鑑札、といった格好でユーモラスに歌い踊るその姿は、滑稽で愉快なものである。
 さいとりさしは、江戸から今に伝わる庶民の伝統芸能である。
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2007/1/18


長浜城 Nagahama-jyo Nagahama Castle

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 織田信長が浅井長政の居城の小谷城を攻めた際、横山城を守る木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が、小谷城が落城する直前にお市と3人の娘を救出した話は有名。
 1573年9月、浅井氏が滅亡すると、藤吉郎は戦功により領地を与えられ、羽柴秀吉と名乗り、はじめての城持ちの大名に出世した。
 翌年、今浜に城を造り始める。小谷城で使われていた資材や、竹生島に隠されていた材料を見つけ、それらを使用して造られた。
 1575年秋頃、城が完成すると地名を今浜から「長浜」に改め、小谷城から移り住んだ。この頃の秀吉は、信長の先兵として長浜城から北陸や中国地方に攻めに行っていた。
 1582年、信長の亡き後、柴田勝豊が城主になるが、すぐに取り返し、賤ヶ岳合戦の拠点にした。
 その後、数々の武将が城主になるが、豊臣氏滅亡により取り壊され、石垣など多くの材料は彦根城の建設に使われた。
 現在の長浜城は、市民の熱意と寄付金などで1983年に建設され、歴史博物館として開館した。
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2007/1/12


東京手描友禅 Tokyoyuuzen Tokyo Hand-Painted Yuzen

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 東京手描友禅は、色数をおさえた粋なデザインを特色とする東京の染物である。
 手描友禅の手法は、300年程前、京都の染色家・宮崎友禅斉によって確立された。
 江戸時代中期、武家政治の中心として栄えた江戸には、関西方面からの産物がたくさん集まってきた。その結果大名のおかかえ染師等が多く江戸に移り住むようになり、各種の技法が伝えられた。
 町人が経済の主導権を握るようになるにつれ、町人文化が発達して、粋や寂びといった感覚が一般的になり、東京手描友禅の発展に寄与した。
 柄は単彩で粋な意匠を特色とし、地味な感じの中にも明るい色調とデザインの新しさがある。
 東京手描友禅の特色は構想図案から下絵・友禅挿し・仕上げに至る工程が作者の一貫作業で、その作品は多くの人に好まれている。
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