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熊本県に伝わるてまり唄「あんたがたどこさ」を生んだのは、まさにこの「肥後てまり(ひごてまり)」である。
鮮やかな色彩と幾何学模様が美しい肥後てまりは、江戸時代、各藩の城勤めの奥女中たちが手慰みで作り始めたのがはじまりで、その後各地に伝わったものとされる。
代々肥後の女性に受け継がれてきた肥後てまりは、明治の中頃からのゴムまりの普及で次第に姿を消していったが、昭和四三(1968)年に肥後てまり同好会が発足し、技術が本格的に伝承されるようになった。
肥後てまりの芯は、斜めに切ったへちまを乾燥させたものを使用する。線で包み、弾力をだして糸で巻き、球の形に仕上げる。フランス刺繍の糸を使用しているため、てまりの配色も素晴らしく、デザインも豊富である。
昔、熊本市に流れる坪井川両岸の船着き場を「船場(せんば)」と呼んでいた。てまり唄ができた頃は、清流の中に小エビも群れ、狸がいた「船場山」周辺は、林や竹薮がうっそうと茂っていたといわれている。
鮮やかな色彩と幾何学模様が美しい肥後てまりは、江戸時代、各藩の城勤めの奥女中たちが手慰みで作り始めたのがはじまりで、その後各地に伝わったものとされる。
代々肥後の女性に受け継がれてきた肥後てまりは、明治の中頃からのゴムまりの普及で次第に姿を消していったが、昭和四三(1968)年に肥後てまり同好会が発足し、技術が本格的に伝承されるようになった。
肥後てまりの芯は、斜めに切ったへちまを乾燥させたものを使用する。線で包み、弾力をだして糸で巻き、球の形に仕上げる。フランス刺繍の糸を使用しているため、てまりの配色も素晴らしく、デザインも豊富である。
昔、熊本市に流れる坪井川両岸の船着き場を「船場(せんば)」と呼んでいた。てまり唄ができた頃は、清流の中に小エビも群れ、狸がいた「船場山」周辺は、林や竹薮がうっそうと茂っていたといわれている。
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