NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/7/11


両部大経感得図 Ryoubudaikyou-kantokuzu 

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 両部大経感得図は、保延二(1136)年に制作された、藤原宗弘(ふじわらのむねひろ)の作品です。縦179×横143cmの大きさで、素材は絹地を使用し、絹本著色(けんぽんちゃくしょく)という技法で描かれています。
 両部とは、「大日経(だいにちきょう)」と「金剛頂経(こんごうちょうきょう)」のことを指します。両部大経感得図では、真言宗の祖師である善無畏(ぜんむい)や、龍猛(りゅうみょう)が両部を手にする場面が描かれています。また、本作品に、五重塔など、日本の景観が描かれているのは、制作者の藤原宗弘が、インドの風景を知らなかったためであると考えられています。
 平安時代に作成された作品では、大きな破損もなく、制作年、制作者が共に判明している珍しい作品だといえます。
 もともとは、奈良県天理市の内山永久寺にありましたが、明治の廃仏毀釈により同寺は廃寺となり、現在は大阪市都島区にある藤田美術館に収蔵されています。
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2008/7/7


玄奘三蔵絵 Genjou-sanjou-e 

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 玄奘三蔵絵(げんじょうさんじょうえ)は、大阪府大阪市都島区の藤田美術館にある大和絵である。国宝に指定されている。
 玄奘三蔵絵は、「西遊記」で知られる、法相宗の祖師・唐像玄奘三蔵法師の一生を一二巻の絵巻に仕立てたもので、国禁を犯して仏法を求めてインドへ旅立ち、多くの経典類を携えて17年後に帰国する物語を描いたものである。
 「大乗院寺社雑事記」には信円が作らせた旧本があった事が記されているが、この旧本は何らかの理由で失われ、鎌倉時代末期になって新調されたのが、現在ある新本玄奘三蔵絵である。
 新本の絵師は金銀濃彩を駆使した壮麗な色調や運筆などから、当代随一の絵師・高階隆兼(たかしなたかかね)ではないかと推定されている。
 玄奘三蔵絵は、異国の地を魅力的に描いた貴重な絵巻物である。
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2008/7/4


絞り染め Shiborizome 

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 絞り染め(しぼりぞめ)とは、布を糸で括ったり、縫ったりしてしわをつける事によって模様を表す、染色方法である。
 古くは、数千年前にラテンアメリカ、インド、中国、アジアで作られた布地にもその痕跡が見られ、日本へは、少なくとも1300年以上前に中国から伝わり、その後日本文化の一部として定着したといわれている。
 徳川時代には、美術としても発展を遂げ、技法の種類も広がり、各地でその土地を特色付ける独特な形態も生まれていったという。
 生地を結んで染めると、表面は染まって結び目の内側には色が入らない。糸を使って色々な結びをし、その技術の種類は限りがない。
 世界の絞り染めには6~7種類しか技法がないが、日本にはシンプルな物から、理解する事さえ難しい気の遠くなるような複雑なものまで、およそ100種類も存在している。
 絞り染めは、日本に古くから伝わり発展した伝統の染め物である。
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2008/7/3


たたら Tatara 

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 たたらとは日本独自の製鉄技術もしくは製鉄所のことをさす。技術そのものは大陸から渡って来たものであるが、後に日本で独特の発展を遂げていくこととなる。
 特に刀や槍などの武器は戦の勝敗を決めるものであり、たたら技術の発展は歴史においても重要なものであったといえる。
 元々たたらとは、炉に風を送り温度を保つ「ふいご」のことをさしていたが、その語源は神話によるものとか、朝鮮語から変化したものとか、インドのサンスクリット語に由来するなど諸説ある。
 戦国時代、毛利元就が統治していた現在の岡山県にあたる備前、備中、備後がたたら場として栄え有名であったといわれている。
 古代のたたらは鉄鉱石を原料としていたが、近世では主に砂鉄が原料とされ、叩いたり伸ばしたり鍛えることが出来る鋼が製造されるようになった。江戸時代に入ると、たたらの技術がより一層発展をとげ、優れた日本刀や刃物、工具が造りだされたという。
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2008/5/12


生駒市 伊弉諾神社 Ikomashi Izanagi-jinja 

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 奈良県生駒市の「伊弉諾神社(いざなぎじんじゃ)」は、長弓寺(ちょうきゅうじ)境内の東側に鎮座する。
 長弓寺は、天平一八(746)年、聖武天皇の時に創建され、天皇の勅願により、寺の守護神として伊弉諾神社が建立された。神社の神職は、長弓寺の僧の中の第一﨟の人が継承していた。
 ご祭神は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、素盞鳴命(すさのおのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)の三柱である。
 素盞鳴命を祀ることから「牛頭天王社(こずてんのうしゃ)」とも呼ばれている。牛頭天王は、もともとインドの神様で、祇園精舎の守護神であり、後に日本の神様である素盞鳴命と習合した。
 本殿の背後にはうっそうと茂る雑木林があり、静かな佇まいをみせている。
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2008/4/22


毘沙門天 Bishamon-ten 

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 毘沙門天(びしゃもんてん)は、元々はインド古代神話の神だ。
 仏教においては持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられ、中でも最強の神として知られている。
 梵名であるヴァイシュラヴァナの読みからビシャモンと音写され、毘沙門の漢字が当てられた。
 また、その梵名が「よく聞く所の者」という意味もあることから多聞天(たもんてん)の名でも呼ばれており、四天王の一尊として安置する場合は多聞天、独尊像の場合は毘沙門天と呼ばれる。
 その姿は頭には冠、右手には宝棒、左手には経文を納めた塔を持っている。また、武神の名にふさわしく鎧を着込んでいるのも特徴である。
 日本においては聖徳太子が戦勝を祈願して四天王像を祀ったことから、古来より戦勝護国の神として、武士たちの信仰を集めた。
 七福神の一人としても知られており、戦いや勝運にご利益があるとされている。また、幸福の神である吉祥天を妻としていることから福徳を与える神でもある。
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2008/2/14


龍飛崎 Tappi-misaki 

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 龍飛崎(たっぴみさき)は、青森県東津軽郡外ヶ浜町にある津軽半島最北端の岬である。
 岬は海抜100m前後の台地状にあり、山並みがいきなり海に落ちる突端が龍飛崎で、高台には日本の灯台50選のひとつにも選ばれている、白亜の龍飛埼灯台が建っている。
 名前はアイヌ語で刀を意味するタムパから来ているとされるが、龍が飛ぶがごとく、強い風が吹くことから龍飛崎と呼ばれるようになったとも言われている。
 岬には津軽海峡冬景色歌謡碑と、碑の丘や太宰治文学碑、吉田松陰碑など、多くの文人・偉人碑が存在している。また、龍飛バス停と龍飛崎灯台を結ぶ階段は、日本唯一の国道階段として知られている。
 岬一帯には、風力発電の風車が回る龍飛ウインドパークと展示館、青函トンネル記念館、龍飛崎シーサイドパークなども存在する。
 龍飛崎は、壮麗で迫力ある、日本を代表する岬である。
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2008/2/12


坐禅 Zazen 

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 禅とはインドから中国、そして日本へは鎌倉時代に伝わったとされる宗教である。武士や庶民にも広まり、各地に禅寺が建てられた。
 その禅の修業のひとつ、坐禅(ざぜん)とは、姿勢を正して坐った状態で精神統一を行う、基本的な修行のことをいう。
 座禅とも表記されるが、正式には「坐」の字を使用するという。坐禅は坐ることに重きを置く修行である。
 姿勢、呼吸、心を整え、坐禅用の座布団、坐蒲(ざふ)の上に腰を下ろし、浅くあぐらをかく。足の組み方や体勢など、いくつか独特の流儀があるという。そして目を閉じて、ひたすら無の境地に至ることが目的とされている。
 坐禅による腹式呼吸の効果は医学的にも認められてきており、健康目的などにも体験する人が増えているという。
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