NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/3/11


天草 高浜焼 Amakusa Takahama-yaki 

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 熊本県天草地方で焼かれる陶磁器類をまとめて、天草陶磁器(あまくさとうじき)と呼ぶ。平成一五(2003)年に国の伝統的工芸品に指定された際、新たに名付けられた呼び名で、高浜焼(たかはまやき)はこれらを代表する磁器の一つ。
 宝暦一二(1762)年、上田伝五右衛門が天草西海岸に産出される純度の高い陶石を使用して磁器を作るため、肥前の陶工を招いて高浜に窯を開き、白磁の生産をしたことに始まる。安永六(1777)年、長崎奉行によりオランダ向きの焼物製作を命じられ、染付色絵の欧風皿などの生産を行い、明治三三(1900)年まで続けられたが廃窯した。昭和二七(1952)年に再興され、現在は白磁の食器類を中心に作られている。
 現代の生活様式に調和する「白く」「薄く」「透明な」をモットーに、世界に誇る天草陶石の良質の原料を生かし、洗練された高度な技を駆使して焼き継がれている。
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天草 丸尾焼 Amakusa Maruo-yaki 

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 熊本県天草地方で焼かれる陶磁器類をまとめて、天草陶磁器(あまくさとうじき)と呼ぶ。平成一五(2003)年に国の伝統的工芸品に指定された際、新たに名付けられた呼び名で、丸尾焼(まるおやき)はこれらを代表する陶器の一つ。生活に根付いた焼物が多く、土もの以外に天草陶石で作った白陶の器なども人気がある。
 家伝によれば、弘化二(1865)年に金澤與市が創業したという。しばらくは瓶類や土管類を製造していたが、昭和四二(1967)年にこれらの製造を中止。日曜雑器を中心とした小物類の生産への転換を図り、窯名も粘土の採土地である丸尾ヶ丘の地名をとって「丸尾焼」と改称した。代々の地道な研究が実を結び、現在は年間の来窯者数が四万人を超える、九州を代表する窯元にまで成長した。
 普段着感覚の焼物にこだわり、生活空間をより豊かにする日用品としての陶器の可能性を求め、その技法はさらに進化し続けている。
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2007/4/13


中村清六 Nakamura Seiroku Seiroku Nakamura

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 佐賀県に伝わる伝統工芸品、伊万里・有田焼の伝統工芸士。
 1916(大正五)年、長崎県波佐見町生まれ。79年、伝統工芸士に認定され、90年には佐賀県重要無形文化財に指定された。
 戦国時代末期、挑戦の陶工、李参平が陶石を発見、陶磁器を焼いたのが伊万里・有田焼の始まりとされている。
 白い磁肌、華やかな絵付けが特徴、産地により名称が異なるが、現在は製法が同じことから伊万里・有田焼と呼ばれている。
 大ろくろを見事に廻し大物を作り上げる氏の作品の特徴は、つや消しが施されていること。美しい曲線と穏やかな白色をたたえるその姿は、ほのかな温もりさえ感じさせる。
 前だけをしっかりと見つめ、作品を生み出しながら、師から受け継いだ「ものづくりの心」を後継者たちへと惜しみなく伝える。
 凛とした眼差しは氏の作品そのものであるかのようだ。
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2007/3/5


三川内焼 Mikawachi-yaki 

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 16世紀末の豊臣秀吉による朝鮮出兵に参加していた、土地の支配者が、朝鮮から連れ帰った陶工に窯を焼かせたのが起こり。明治維新まで平戸藩の御用窯として栄え、平戸藩が窯の経営を行っていた時代、天草地方で陶石が発見され、技術・技法が飛躍的に発展した。その伝統は今も受け継がれ現在14の窯元がある。
 唐子絵は唐の子どもたち(唐子=からこ)が松の木の下で牡丹に飛ぶ蝶と戯れている様子が描かれている。当時は、描かれた唐子の人数により用途が異なっていた。7人唐子は将軍家や朝廷への献上品の献上唐子とよばれ、5人唐子は藩用、3人唐子は一般大衆用とされた。
 透かし彫りは彫刻で、金属・木・石などの薄板を打ち抜いて模様をあらわす技法。また、その彫刻したもの。 
 欄間の彫刻、刀剣の鍔(つば)などに見られ、色々な焼き物などで使われる技法として有名である。
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2006/12/17


泉山磁石場 Izumiyama-jisekiba Izumiyama Kaolin Deposit

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 えぐりとられたような奇形を残すこの山は、約400年前陶工初代「季参平」という人物が陶石を発見し採掘した跡である。昭和55年、国の史跡として指定される。
 有田の泉山で磁器の原料となる磁石が発見された後、有田で日本初の磁器が焼かれ世にお披露目することとなった。江戸時代を通して、陶石は皿山代官所によって厳しく管理される。
 しかし明治時代には、山を一つ削り取ってしまう。更に掘り下げた結果、まだ埋蔵量は確認できたものの、廃水の不備や熊本県の天草陶石の使用が多くなり、時代の流れとともに、採掘量は減少。近年まで、タイル用の土に利用されていたが、現在は休鉱中である。
 採掘跡の中央部分は広場になっている。崖の頂上は、岩肌の白さを引き立てるかのごとく青々とした松が生い茂る。
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2006/12/15


志田焼 Shidayaki Shida ware

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 志田焼とは、肥前の国鍋島藩、本藩領の東山と支藩蓮池領の西山、いわゆる有田大外山の二つの窒場で焼かれたものを云う。現在の佐賀県藤津郡塩田町。
 初期は、陶器のみの焼成であったが、18世紀の半ば頃から天草陶石による、磁器の焼成が開始された。生産された種類は染付皿と呼ばれるものが中心で、その特徴は「藍色」を主とした濃淡を使って風景、人物、自然などあらゆるものが表現された。
 大正時代からは、志田陶磁器株式会社によって建てられた工場が有名で、刷毛目陶器や染付の磁器など多くを生産。志田焼の中心となった。昭和59年(1984)に工場は閉鎖。
 現在は志田焼の里博物館として当時の建物のまま保存されている。歴史的施設とし高く評価されている。また志田焼資料館では、安藤広重の版画、「東海道五十三次」の作品を、辻一堂が45センチの大皿に描きあげた55枚の絵皿を展示。即売会やろくろの絵付け陶芸体験などもできる。
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