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2008/7/25


三陸リアス式海岸 Sanriku-riasushiki-kaigan  Saw-tooth Sanriku Coastline

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 三陸リアス式海岸(さんりくりあすしきかいがん)とは、青森県南東部~岩手県沿岸部~宮城県の牡鹿半島までの、総延長600kmのリアス式海岸の事である。
 三陸とは青森県の陸奥、岩手県の陸中、宮城県の陸前の総称で、リアス式海岸とは海岸線に対して垂直方向に伸び、河川により浸食されてできた開析谷が、谷が沈降してできた入り江になり、それが連続して鋸の歯のようにギザギザに連なっているような地形をいう。
 三陸海岸の沖合いは、寒流の親潮と暖流の黒潮が三陸沖でぶつかり、世界四大漁場と呼ばれるほど豊かな漁場が広がっている。
 また、海岸の断崖絶壁は、ミサゴ、ウミウ、ウミネコ等の野鳥の格好の繁殖地ともなっている。
 三陸リアス式海岸は、太平洋の荒波と風雨によって造り出された景勝地が、点在する海岸である。
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2008/7/23


青森 蕪島 Aomori Kabu-shima 

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 蕪島(かぶしま)は、青森県の種差海岸の北端、八戸市の八戸港内にある周囲800mほどの小さな島である。
 島の頂上には永仁四(1296)年に厳島神社を勧進したとされる蕪嶋神社が鎮座し、漁業の守り神でもある弁財天が祀られている。
 昭和一七(1942)年の埋め立て工事で、現在は本土と陸続きとなっている島は、毎年二月下旬から四月中旬にかけて飛来する約四万羽ものウミネコの一大繁殖地となっており、島全体が国の天然記念物に指定されている。
 ウミネコは漁場を知らせてくれる鳥で、弁天様の使いと考えられていたため、ウミネコと人との良好な関係が保たれていたこともあって、日本にあるウミネコの繁殖地のうち、巣を間近に観察できる唯一の場所となっている。
 神社の周囲には散策ができるように通路が設けられており、天気の良い日には島中に咲き乱れる菜の花や赤い鳥居の上を弁天様の使いが舞う美しい光景を楽しむことができるだろう。
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2007/6/27


恵山岬 Esan-misaki 

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 恵山岬(えさんみさき)は、北海道函館市恵山岬町にある亀田半島の先端に程近い場所にある、津軽海峡と太平洋の境をしるす岬である。
 岬の突端には、明治二三(1890)年に点灯した恵山岬灯台が立っており、日本の灯台50選にも選ばれている。
 恵山岬一帯は芝生の敷かれた灯台公園になっており、展望広場や、水の広場・遊戯広場、灯台をテーマにした灯台ファミリー博物館・ピカリン館や宿泊型温泉施設などの観光施設が集中している。
 灯台近くの海岸には、水無海浜温泉もある。
 また岬の沖は、8月~11月の間はいか漁の漁場となる。2000隻以上のいか釣り船の漁火が海を照らす風景は、幻想的で美しい。
 恵山岬は、前に太平洋、後ろに恵山を望む風光明媚な名勝である。
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2007/6/19


えりも町 住吉神社 Erimo-cho Sumiyoshi-jinja Erimo-cho Sumiyoshi Shrine

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 えりも町の住吉神社(すみよしじんじゃ)は、北海道幌泉郡えりも町本町にある神社である。祭神は表筒男命、中筒男命、底筒男命。
 文化一一(1814)年、漁場の安全豊漁を祈念するために、現在地より北方にある住吉山に社殿を建立したのが始まりとされる。
 明治三一(1898)年、風害によって社殿が倒壊し、現在地に移転した後、流れ破風造の社殿を建立した。
 昭和一二(1937)年、現在ある社殿に改築される。
 境内には嘉永三(1850)年建立の手水鉢と、嘉永四(1851)年建立の石灯籠脚台が残る。
 毎年9月15日の例祭日には、特殊神事・海上神輿渡御が1時間半に渡り行なわれている。
 えりも町の住吉神社は、昆布採取、鮭建網など漁業の神として今も篤く崇敬されている社である。
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2007/6/6


寿都 鰊御殿 Suttsu Nishin-goten 

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 北海道寿都郡寿都町にある鰊(にしん)御殿は、明治十二(1879)年に仕込屋である橋本与作が建てたと言われる建物である。釘を1本も使っていない見事な建築物である。
 一般的に鰊御殿は網元や漁師たちが寝泊りする建物を指すが、この建物は、ここの漁場で「仕込屋」として商売をしていた橋本家の居宅である。仕込屋とは、網元や漁師に金品を貸し、代金を数の子や身欠鰊、鰊粕などで返済してもらい、これを売る商売のことを指す。
 創業者の橋本与作は、自分の出身地・福井県の本家の庄屋宅を模し、全建材を集めるのに3年、建築に4年の歳月をかけたという。総工費は当時で7万円を要した。
 床下には防湿のために6百俵もの木炭を敷きつめ、窓は当時ギヤマンと呼ばれたガラスをオランダから取り寄せるなど、贅を尽くした造りになっている。鰊漁に沸いた当時の繁盛振りが偲ばれる建物である。
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2007/6/4


禅源寺 五百羅漢図 Zengen-ji Gohyakurakan-zu The paintings of Gohyaku Rakan at Zengenji Temple

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 禅源寺(ぜんげんじ)は、北海道古平郡古平町浜町にある曹洞宗の寺である。
 安政五(1858)年、「勧請開山」祖山泰堂二代、大和尚によって開基された。松前町法源寺の末寺でもある。
 五百羅漢図(ごひゃくらかんず)は、禅源寺が所有する480枚に及ぶ油絵で、本堂にて保管されている。
 大正八(1919)年、種田富太郎は樺太漁場を切り上げての帰途、利尻沖の大時化で遭難し、2昼夜漂流の後に救助された。
 富太郎は日頃信仰している観音菩薩のおかげであると、五百羅漢の寄進を発願し、林竹次郎により製作され、約20年の歳月を要して完成し、寺に納められた。
 禅源寺の五百羅漢図は、仏像では傷みやすく、日本画では保存に困難と考えた末、珍しく洋画で描かれたという仏画である。
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2007/5/25


留萌のニシン街道 Rumoino-nishin-kaido 

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 「留萌(るもい)のニシン街道」は、かつて北海道の留萌市がニシン漁で活況を呈していた名残を残す番屋(漁家建築の呼称)街だ。
 ニシン漁は北海道独自の漁法をで、松前藩時代から盛んに行われていた漁である。豊漁の時には巨大な富をもたらしたかと思えば何年も凶漁が続く。それでも、夢をかけてニシン漁親方は漁に備えていた。
 留萌のニシン街道の番屋の代表的なものが「旧花田番屋」である。最盛期には18ヶ所の漁場を経営し、500人を超す漁夫を抱えていたと言う。内部は、中央に土間を挟み、贅を尽くした住居部分と板張りの間と寝台が設けられており、漁夫のための住居部分に分かれている。
 他に「旧佐賀番屋」「旧岡田番屋」と特徴のある番屋が続く。往時の施設、ニシン船、漁具とともに生活用品等がそのまま残されており、今すぐニシン漁ができるほどと言われている。
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2007/5/10


貞山堀 Teizan-Bori 

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 貞山堀(ていざんぼり)は、宮城県塩竈市から岩沼市にかけて存在する運河である。別名、貞山運河とも言う。
 仙台藩が慶長二(1597)〜寛文元(1661)年の64年間にわたり、仙台米を水上輸送する為に作り上げたものである。
 伊達政宗の命により開削されたため、法号の「貞山公」に因んで貞山堀と名付けられたという。
 仙台湾沿いに、阿武隈川河口の荒浜から松島湾の塩釜まで全長31・5kmの運河が掘られた。
 明治には、北上川〜鳴瀬川の北上運河と、鳴瀬川〜松島湾の東名運河が完成した。こうして、初期の貞山堀と合わせて約60kmの水路網が出来あがったのである。
 貞山堀は現在、物流に用いられる例はまれになってしまったが、農業用水路、漁港の一部、シジミ漁・シラス漁などの漁場、釣りなどのレジャーなど、多くの事に利用されている。
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