NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/1/8


山王 日枝神社 Sanno-Hiejinja Sanno Hie Shrine

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 東京都永田町にある日枝神社は、文明一〇年(1478)、太田道灌公が江戸城を築城するにあたり、鎮護の神として日吉社を勧請したのに始まるとされている。
  その後、徳川家康公が江戸に移封され、江戸城を居城とするに至って『城内鎮守の社』として、また市民からは『江戸の産神』として崇敬されることとなる。
 当初は江戸城敷地内にあり、一般参拝は出来なかったが、 二代将軍秀忠公の江戸城改築にあたり、江戸城外に遷座され、庶民の参拝が可能となった。
 毎年六月に行われる山王祭は、三代将軍家光公以来、歴代の将軍が上覧拝礼する『天下祭り』として、神田明神の神田祭、富岡八幡宮深川八幡祭りとともに江戸三大祭の筆頭として長く親しまれている。
 威勢の良い下町の江戸っ子の中には、『山王祭はお上品過ぎるねぇ』といわれる方もいるが、もし時間があるのなら、江戸の祭りをはしごしてみるのも一興かもしれない。
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2007/9/27


西村神楽 Nishimura-kagura Nishimura Kagura

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 隠岐(おき)の島町指定無形民俗文化財のひとつに「西村神楽(にしむらかぐら)」がある。西村神楽はもともと旧暦六月四日に行うのが習わしで、「麦神楽」といい、各戸から収穫したばかりの新麦を一合ずつ取り寄せて神前に供え、古くは下西の村上社家、東郷の村上社家、原田の村上社家を呼んで舞ってもらっていた。社家(しゃけ)とは、神楽を本業とする家筋をいう。
 昭和二五(1950)年になると、西村地区の人々が東郷村上家の手ほどきを受け、帰省者の多い八月に、自分たちで行うようになった。以来、神職を中心とした有志がこれを受け継ぎ、現在は西村神楽保存会が保存伝承活動に取り組んでいる。久見(くみ)神楽と共に隠岐の島に古くから伝わる神楽で、様々な独特な演目が演じられる。
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2007/9/7


田束山 Tatsugane-san 

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 宮城県本吉郡南三陸町に位置する田束山(たつがねさん)は、かっては霊峰田束山として奥州平泉で栄華を極めた藤原一族が崇拝していた山である。
 そのため、山頂からは平安時代末期の藤原氏ゆかりの経塚群などが多く出土し、平泉文化を研究するうえでも貴重な場所である。
 山腹には三十三観音や不動明王が並ぶ石像公園や、しあわせの森、ふれあいの森公園などが設けられ、市民の憩いの場ともなっている。
 特に、五月のつつじ、六月のアヤメと初夏の田束山には見所が多く、たくさんの人々で賑わいをみせている。また、山頂から見るリアス式海岸も美しい。
 五月には僧侶と山伏による盛大な護摩祈祷も行われる。
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2007/8/24


村上大祭 Murakami-taisai 

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 新潟県下三大祭の一つに数えられる村上大祭(むらかみたいさい)は、西奈彌(せなみ)羽黒神社の例大祭のこと。地元で「おしゃぎり」と呼ばれる山車(だし)が出ることで有名。
 三基の神輿に御神霊を奉遷し、荒馬十四騎、稚児行列を先導に町内を巡行する神事だが、おしゃぎりの中には堆朱(ついしゅ)・堆黒(ついこく)と呼ばれる村上伝統の木彫り漆の粋を凝らした細工が随所に見られ、古いものでは二〇〇年以上も前のものもあるという。
 「おしゃぎり」の名前の由来は、歌舞伎や狂言の音曲やお囃子のことを「しゃぎり」と呼ぶところから来ているとされる。
 寛永一〇(1633)年、村上藩主が神社を城から見下ろすのは畏れ多いとして羽黒神社を現在の場所へ移されたことを祝い、人々が大八車に太鼓を積んで町を練り回したのが始まりと伝えられる。当初は旧暦の六月六日・七日に行なわれていたが、明治以降は新暦に変わり、毎年七月六日・七日となった。
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石鎚山お山開き Ishizuchi-san-oyama-biraki 

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 石鎚山(いしづちやま)は、加賀白山、越中立山、大和大嶺山及び釈迦嶽、駿河富士、伯耆大山とともに、日本七霊山のひとつにも数えられる四国の霊峰。標高は1982メートルである。この石鎚山お山開きは石鎚神社最大の御祭儀で、毎年七月一日〜一〇日までの一〇日間に渡って行なわれる。
 石鎚神社は、修験者の役小角(えんのおづの)が和銅三(710)年頃開山、後年、空海が修業を行ったとも場所とも伝えられる由緒ある神社。
 大祭前日の六月三〇日は出御祭で、神輿に納められた智・仁・勇の三体のご神像が、七合目にある成就社まで運ばれる。翌七月一日の朝、大太鼓の音に送られ、白装束姿の信者が御神像を背に、険しい山道を山頂へと駆け上がる。山頂では、ご神像拝戴(しんぞうはいたい)と呼ばれる、信者の背中にご神像を押しつける神事が行なわれ、人々は一年の無病息災を祈願、その後ご神像は頂上の社に納められ、祭りの期間中鎮座する。
 元々は女人禁制のお山であったが、現在ではそれは七月一日のみとなった。
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2007/7/31


毛越寺あやめまつり Moutsuu-ji-ayame-matsuri 

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 毛越寺(もうつうじ)は、850年、慈覚大師円仁が開山。現在大泉が池を中心とする浄土庭園と平安時代の伽藍遺構がほぼ完全な状態で保存されており、国の特別史跡・特別名勝の二重の指定を受けている。
 大泉が池周辺の約30アールのあやめ園には、3百種、3万株の花菖蒲が紫や白、黄色と色鮮やかな花を咲き競わせ、緑濃い浄土庭園と絶妙のコントラストを見せる。昭和二八年、町民の提案により開山堂前に植えたのが始まりで、翌年には明治神宮から100種100株を譲り受け、現在に至っている。
 あやめまつりは毎年、普通より早咲きの揚羽(あげは)や初鏡(はつかがみ)、初光(はつひかり)などのわせ種が大輪を咲かせた後、見頃の6月20日から7月10日まで開催される。
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登米能 Toyoma-nou Toyoma-Noh

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 登米能(とよまのう)は、宮城県登米町で、伊達一門の流れを汲む能として230年に渡り、その伝統が受け継がれている能楽だ。
 元来、能楽は武家の式楽として重視され、仙台藩においても手厚い庇護と奨励を受けてきた。登米能も仙台伊達藩の能楽である金春大倉流の流れをくむものであるが、歴代の藩主達も能を重んじた影響もあって、登米伊達家では公の儀式の時に演じられる式楽として、武士階級の間に定着し、継承されていくこととなる。
 その後、明治維新の廃藩により能を受け継いできた武士達が帰農した結果、登米の庶民達にも浸透し、今に至っている。
 仙台領内の各地の能楽が廃絶衰微した中で、登米の能楽だけは伝統的な能と狂言を現代に継承する大変貴重な存在として、宮城県の民俗文化財にも指定されている。
 毎年六月の新緑薪能(しんりょくまきのう)と九月に行われるとよま秋まつりの宵祭りに上演される。
 かがり火の中で演じられる登米能は、華麗なる舞と共に見るものを幽玄の世界へといざなう。
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2007/7/4


北海道護国神社 Hokkaido-gokoku-jinja 

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 北海道護国神社(ほっかいどうごこくじんじゃ)は、北海道旭川市花咲町にある神社である。祭神は、明治戊辰の役より大東亜戦争に至る北海道、樺太関係の国事殉難者63141柱。
 明治三五(1902)年、旧第七師団長大迫尚敏主催の下練兵場に小祠を建立し、屯田兵の招魂祭を行ったのが創祠とされる。
 明治四三(1910)年、現在地に新たに社殿を建立、昭和一〇(1935)年、北海道招魂社と称したが、昭和一四(1939)年、北海道護国神社に改称された。
 戦死者を祀る神社として各地に建てられた護国神社の一つで、境内の森厳さ、社殿の壮麗さは東北・北海道一ともいわれる。
 毎年6月4~6日に慰霊祭が行われ、荘厳な雰囲気に包まれる。
 北海道護国神社は北海道唯一の護国神社であり、戦没者の英霊を祀る社として篤く崇敬されている。
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