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2007/10/11


龍華山等覚寺 Ryuuge-zan-toukaku-ji 

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 伊達氏の城下町として発展してきた宇和島。JR宇和島駅の南側を流れる辰野川を挟むようにして、神社仏閣が建ち並ぶ。川辺の路地を上流へしばらく進むと、野川地区の入り口に龍華山等覚寺(りゅうげざんとうかくじ)が見えてくる。敷地には荘厳な墓石が連なる。ここは伊達家の菩提寺として知られる。
 等覚寺は元和四(1618)年、生母の菩提を弔うため初代藩主・伊達秀宗(だてひでむね)が建立。当時は白雲山龍泉寺と号したが、万治元(1658)年に秀宗の墓所となってからは浄妙山等覚寺と改め、さらに安永七(1778)年に山号を龍華山と改称して現在に至る。
 本堂と庫裏は、昭和二〇(1945)年の戦災により焼失したが、鐘楼のある山門だけは残り、わずかに当時を偲ばせる。
 墓には、初代~四代、六代、八代の各藩主のほかに、藩主夫人や殉死した藩士まで葬られている。墓からは宇和島城を望むことができる。
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2007/9/19


成川神舞 Narikawa-kanme 

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 成川神舞(なりかわかんめ)は、鹿児島県指宿市山川成川の成川南方神社にて、三年に一度、一〇月二七日前後に行われる神事である。
 成川南方神社は、創建年は不明ながら古くからこの地に建つ神社で、祭神は建御名方命(たけなかたのみこと)。
 成川神舞はお諏訪さんと呼ばれている南方神社に伝わる神楽で、以前は国家・神社や氏子に事ある時に神事を行い、その最後に神舞を奉納していた。
 成川神舞の起源は不明だが、慶安二(1649)年、藩主・島津家久の前で神舞を舞ったとの記録が残る為、慶安から万治年間(1648~1661)には成立していたと思われる。
 初日と二日目に、グレと呼ばれる神輿が家々を御神幸する神事を行い、二日目の夕刻から二〇番以上ある神舞が奉納される。
 成川神舞は、勇壮な中にも優雅さが感じられる郷土芸能である。
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2007/6/21


市川團十郎 Ichikawa-danjuurou Ichikawa Danjuro

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 市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)とは、江戸歌舞伎の役者の名前であり、歌舞伎市川流の宗家である市川團十郎家の当主名である。
 万治三(1660)年から元禄一七(1704)年を生きた初代市川團十郎は、浄瑠璃や江戸歌舞伎の荒武者事の荒っぽい演出、また一日の狂言の最後に「荒人神の分身」となって立ち現れる神霊事の演出を組み合わせたことで新しい荒事を作り上げたり、また狂言作家「三升屋兵庫」としても活動していた。
 現在は一二代目で屋号は成田屋、家紋は定紋が三枡(みます)、替紋が杏葉牡丹(ぎょようぼたん)である 。
 この名は通常、世襲制であることから「新之助」「海老蔵」を経て襲名することが多い。
 成田屋の定番の歌舞伎である十八番の中では、暫(しばらく)、蛇柳(じゃやなぎ)、鳴神(なるかみ)、嫐(うわなり)、不破(ふわ)、勧進帳(かんじんちょう)が初代が演じたものとされる。
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尾形光琳 Ogata Kourin Ogata Korin

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 江戸時代の画家、工芸家。万治元(1658)年-享保元(1716)年六月二日(7月20日)
 京都の呉服商雁金屋の次男として生まれた。
 光琳三〇歳の頃、父が亡くなった。この頃には雁金屋の経営は破綻していたが、元々遊び人だった光琳は遊興三昧の日々を続け、経済的困窮が一因で、元禄一四(1701)年頃画業を始めた。
 光琳は公家、大名、役人等に多くのパトロンを持っており、ニ条家にも出入りしていたとされる。
 宝永元(1704)年頃、京の役人であった中村内蔵助が江戸詰となり、頼りに江戸へ下った。江戸でも大名や豪商等のパトロンがいたが、宝永六(1709)年には京都に戻った。
 作品は、大画面の屏風、香包、扇面、団扇、手描きの小袖、蒔絵、実弟の尾形乾山の作った陶器への絵付け等、さまざまな作品を残した。特徴として、大体な構図や独特のリズム感、華やかな画面構成は「琳派」と呼ばれる画派の代表的画家とされ光琳模様という言葉を生んだ。
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2007/4/10


榎原神社 Yowara-Jinja Yowara Shrine

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 榎原神社(よわらじんじゃ)は、宮崎県南那珂郡南郷町にある神社である。祭神は、天照大神。宮崎県指定の有形文化財とされる。
 万治元(1658)年、飫肥藩主伊東祐久によって、鵜戸神宮の分霊を祀ったのが創建である。
 榎原山大権現と称されて歴代藩主の崇敬も篤く、社録神領の寄進を受け、東部の鵜戸神宮と並び称せられてきた。
 宝永四(1707)年、現在の社殿が建てられた。当時は八幡造りであったが、寛政一〇(1798)年、権現造りに改装された。
 榎原神社鐘楼も貴重な遺構であり、県文化財に指定されている。
 かつては縁結びや豊作を願う若い男女などが近郷近在から押しかけ、参道は終日賑わったという。「榎原まいり」は、この風習を歌った民謡である。
 榎原神社は、霊験あらたかな、人気の衰えない神社である。
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2007/4/6


名勝仙巌園 Meishou-Senganen 

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 仙巌園(せんがんえん)(通称・磯庭園(いそていえん))は、鹿児島県鹿児島市吉野町磯にある国指定の名勝地。
 万治元(1658)年、第十九代島津家当主(薩摩藩第二代藩主)島津光久が、別邸として造営して以来、今日まで代々の島津家の当主に受け継がれている。
 目前の桜島を築山に、錦江湾を池にみたてるという雄大な大自然を借景にしたこの庭園は、天下の名園として名高く、その景勝のみならず構図自身が感動的である。 
 幕末には、1万5000坪もの敷地内に、第二八代当主(十一代藩主)島津斉彬による日本最初の洋式産業事業「集成館事業」が展開され、近代日本の発祥の地でもある。園内には反射炉跡や御殿、日本初のガス灯・鶴燈籠、曲水の庭など、見所が多い。日本で最初にガス灯が点灯したのもこの場所である。
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2007/3/27


鞍迫観音堂 Kurahasama-kannon-dou 

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 鞍迫(くらはさま)観音堂は約千百年以上も歴史のある由緒ある古刹。岩手県遠野市宮守町上鱒に所在する。
 仁寿二(852)年、慈覚大師が仏教の布教に全国を巡っていた際、この地で1本のカツラの木を見つけ、その木から7体の観音菩薩を刻み、7ヶ所にお堂を作り安置したのがはじまりとされる。
 十一面観音の本尊は遠野郷では最も大きく、古い仏像。万治二(1659)年に火災に遭い、形は残ったものの表面は焼け焦げた。このことが信仰を深めさせたとも言われる。
 鞍迫観音堂は野火により焼失した後、寛文十(1670)年に再建。以降330年も経ている文化財として、仏堂建築史の上でも非常に価値のある建造物だ。県の有形文化財にも指定されている。
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2007/3/22


対馬藩お船江跡 Tsushima-han-ofunae-ato 

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 「対馬藩お船江跡」は、長崎県を流れる久田川河口にある船着場跡。県指定記念物にもなっている。
 現在の遺構は、江戸時代の万治三(1660)年の造成と言われている。堤の石積みや正門、倉庫、休憩の建物などが、昔日の名残を今もとどめ、往時の壮大な規模を窺うことができる。
 江戸時代、水辺の藩は藩船を格納する「お船屋」を設けていたが、ここ対馬藩お船屋のように遺構が残っている例は珍しい。日本近世上類まれな遺構として、島内外から多くの観光客が訪れている。
 江戸期に日本が鎖国下にあった時代も、日朝外交史上大きな役割を果たした対馬藩のひとつのシンボルとも言える遺跡である。
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