NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/10/17


虎踊 Tora-odori 

Jp

 虎踊(とらおどり)は、神奈川県横須賀市西浦賀に伝わる伝統芸能である。
 毎年六月の第二土曜日に、西浦賀にある為朝神社(ためともじんじゃ)で舞われ、奉納されている。
 享保五(1720)年に奉行所が伊豆下田から浦賀に移転した折に一緒に伝えられたとされ、人形浄瑠璃作家・近松門左衛門の「国姓爺(こくせんや)合戦」を題材にしたという。
 踊りは歌舞伎や唐人踊りが取り入れられた珍しいもので、国姓爺合戦に登場する和藤内(わとうない)もそのまま登場、唐に渡った和藤内が、唐の子供である唐子達と交流を深め、暴れまわる虎を神符でもって退治するという筋書きである。
 虎は親子二体で、親虎には大人一人が入り、子虎には子どもが二人ずつ入って、『シラミ取り』や 『谷のぞき』など本物さながらの迫力ある芸を魅せてくれる。
 県の無形民俗文化財にも指定されており、異国情緒を放つ豪快な物語は、今も見る人々を惹きつけて止まない。
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2008/2/7


お吉が淵 Okichiga-fuchi 

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 お吉が淵(おきちがふち)は静岡県下田の生沢川にある深淵である。唐人お吉(とうじんおきち)で有名なお吉が身を投げたことからこの名がつけられた。
 評判の芸妓であったお吉は、一七歳の時、幕府の策で恋人の鶴松との仲をさかれ、日本初のアメリカ領事館の総領事タウンゼント・ハリスの世話役を命じられた。ハリスの帰国後は唐人に仕えた女と嘲笑され、一時は、結婚して小料理屋も開いたが、やがて、病苦と貧困の果てにこの淵に身を投げたといわれる。
 身寄りのなかったお吉の亡骸は近くの宝福寺の住職が供養し、宝福寺はお吉の菩提寺となった。
 昭和三〇年代に、付近の人々によりお吉堂が建立され、宝福寺のお吉の墓も新しくされた。
 毎年お吉の命日には祭りが開かれている。また、宝福寺のお吉の墓には今でも芸能人をはじめ多くの人が訪れている。
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2008/1/24


肥後こま Higo-koma 

Jp

 熊本県熊本市の「肥後こま(ひごこま)」は、鮮やかな色が特長の郷土玩具である。
 肥後こまの色は五色あり、頭の部分に筆で、赤・黄・緑・黒と華麗な色付けをし、外側は必ず白い木地のままにしておくのが特徴である。赤は心臓、黄は肝臓、緑はすい臓、黒は腎臓、そして白は肺というように、それぞれが身体の五臓にたとえられ、健康長寿への願いが込められている。
 江戸時代は武家の子弟の遊びであったが、明治時代に入り庶民の間に広がり、子どもの玩具、土産物として親しまれるようになった。
 こまになる材料は、伐採後五年から一〇年乾燥させた椿やコヤス、サルスベリ等が使われている。
 肥後こまの種類には、トンボ、チョンカケ、ヒネリ、坊主、唐人、出ベソ、二段、ドンベン、ダルマ、タッツケ、マンジュウ、コショウ、ニシキの一三種類がある。その中でも特別な演技目的があるチョンカケなどには、ツバキ等の重くて堅い木が使用される。チョンカケごまとは、肥後こまの中でも代表的なもので、紐を使って空中で回すものである。
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2007/5/7


唐人駄場 Toujindaba Tojin Daba

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 唐人駄場とは、足摺半島の臼碆(うすばえ)近くの山の頂にある、今から6000年から7000年前(縄文時代初期から弥生時代) の石器や土器片が出土している場所である。
 出土数は四国一と云われ、 周囲に点在している石は円形に配置され、いわゆる「ストーンサークル」ではないかと研究が進められている。
 又、そこから200m上には巨石群があり、唐人石と云われ、巨石が積み重なった造形物が集まっている。重なった石の下には縄文人が居住していたと思われる場所がいくつもあり、土器片や石器も数多く出土している。
 「唐人」とは、中国人のことではなく「異人」という意味。駄場とは山頂の平坦な場所のこと。
 長い時間を経て、その目的も利用方法も歴史の彼方になってしまったが、今も縄文の記憶を蘇させられる不思議な空間である。
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2007/3/2


中の茶屋 Nakano-chaya 

Jp

 丸山(寄合町)の遊女屋「中の筑後屋」が、江戸時代中期に茶屋を設けていたところ、当時長崎に居た唐人が千歳窩(せんざいわ)と名付け、この名に因んで別名を「千代の宿」とも呼ばれた。
 花月楼と共に丸山最好の茶屋として、長崎ばかりでなく他郷の人々にも知られ、内外の文人墨客が好んで遊び親しみ、長崎奉行の市中巡検の際にはその休憩所にあてられることもあったという。また、幕末期にできた俚謡(りよう) 長崎ぶらぶら節には、「遊びに行くなら花月か中の茶屋」と読み込まれている。
 江戸時代中期に築かれた庭園として、市内寺院のものを除けば、数少ない遺跡の一つであり、昭和51年に長崎市の史跡に指定された。
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