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2008/7/16


貞山運河 Teizan-unga Teizan Canal

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 貞山運河(ていざんうんが)は、仙台湾沿いにある運河のことをいう。総延長約四六、四キロメートルの全国一長い運河で、旧北上川河口から阿武隈川河口までを結んでいる。
 仙台藩主伊達政宗は慶長二(1597)年、松島湾と阿武隈川を結ぶ運河の建設を命じた。政宗亡き後も複数の運河が計画され、その後明治一七(1884)年まで建設が続いた。貞山掘とも呼ばれ、伊達政宗公の謚(おくりな)である「瑞巌寺殿貞山禅利大居士」(ずいがんじでんていざんぜんりだいこじ)からその名がついた。
 この時代の物資輸送は舟運が中心だった。当時の内務卿大久保利通は、東北六県の長官に意見を求め、宮城・岩手間の米輸送に欠かせなかった北上川に着目し、北上川と阿武隈川を結んで東北の輸送手段を造ろうと考えた。
 現在の運河は、農業用水路や漁港の一部として利用されるほか、釣りの名所としても知られる。また、七北田川から名取川にかけての運河沿いには、美しい松林が続く海岸公園があり、サイクリングロードなどが整備されている。
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2007/11/16


【秋・龝】 Shuu Autumn

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 この字は「あき」という季節の、古今変わらない特長である実りと収穫をあらわし、それが禾偏(のぎへん)に反映されています。偏以外の部分は害虫を焼くことを示しています。
 本来の字形では火が下にあります。火を幼虫、または虫卵に直接あてるということを意味するリアルな位置です。甲骨文にはじめて本来の字形が見られます。正字の「龝の龜の下に灬(烈火)がある字」は今「異体字」とよばれるようになりましたが、実は本来の意味をもっとはっきり表しているのです。常用漢字の「秋」では要素の相互関係がわからず、「害虫を焼く」という火の役割が一切見えない省略形になってしまいました。正字では、灬(烈火)は適当に虫の下の部分に置かれています。
 殷の時代に農業はすでにかなり発達し、すでに肥料として灰と糞が利用されていましたが、ズイ虫やイナゴ(稲子)の害も無視できない存在でした。十分に成長した虫は逃げますから、火を当てて焦がしたのはむしろその稲・穀物に付着している動けない虫卵でしょう。そして正字の字形にある虫(龜)にはある象徴的な意味が生じました。そこには、季節の儀礼との深い関係があったのでしょうか。
 
■ 秋・甲骨文(こうこつぶん)
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2007/9/28


植芝盛平 Ueshiba Morihei Morihei Ueshiba

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 植芝盛平(うえしばもりへい)は「合気道」の創始者。明治一六(1883)年、和歌山県生まれ。数学・物理に強く、英雄伝説や奇跡説話に関心を抱く少年だった。
 税務署勤務を経て、文房具店を開業後、古流武術や剣術を習得した。日露戦争に従軍した盛平の銃剣術は、連隊一だった。
 故郷に戻って農業に携わり、開拓移民として北海道へ。農業指導の傍らで、合気柔術を習った。
 父の病気平癒祈願の為に、京都の出口王仁三郎を訪ね、「鎮魂帰神法」の教えを受ける。触発され、京都に移住し、「植芝塾」を開設した。気・心・体がひとつになった「合気武術」を誕生させた。
 盛平の噂は、全国に広まり、多くの軍人や武道家を集めた。その後、東京に道場、茨城県に修練場と合気神社を併せもつ合気苑を建てた。
 海外に自ら出向くなど、晩年まで合気道の指導・普及に身を捧げた。
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2007/7/31


廿一田植踊 Nijuu-ichi-taue-odori 

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 廿一田植踊(にじゅういちたうえおどり)は、宮城県気仙沼市にて毎年元旦の早朝に行われる民俗芸能である。県の民俗文化財に指定されている。
 1830年代頃に起きた天保の大凶作の際、一人の若者が黒川方面で習得した田植踊りを広めたのが始まりだといわれるが、岩手県気仙地方から伝わり江戸時代から踊っていたとする説もあり、定かではない。
 廿一という名前は、地域に神社が21社あった事に由来しているという。
 毎年元旦の早朝に八雲神社と古峰神社で豊作祈願の舞いを奉納した後、地区の農家を門付して回る。
 22個の演目がある本踊りは「ハーヤンドーヤーハイ」の威勢の良いかけ声から始まり、手に太鼓を持ち演奏しながら踊る。
 太鼓を叩くテンポは速く、動作はひとつひとつ大きく、力強い。そのたくましい鼓舞が、豊作を祈る心を表しているようである。
 廿一田植踊は、古来の芸風を継承保持する伝統芸能である。
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2007/7/30


愛子の田植踊 Ayashi-no-taue-odori 

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 愛子の田植踊(あやしのたうえおどり)は、宮城県仙台市青葉区下愛子の諏訪神社にて、毎年4月29日の祭礼日に踊られている民俗芸能である。県の民俗文化財に指定されている。
 田植踊とは、稲田の作業を舞踊化し、真似る事でその年の豊年を祈願するものである。
 愛子の田植踊は元禄年間(1688~1704)に加藤某が京都から伝えたとされるが、同地鎮座の古社・御殿山諏訪神社の別当が代々修験であった事から、その関連が起源と考えられている。
 一時は途絶え、昭和五(1930)年、仙山線の開通で復活したが、後に再び衰えた。
 昭和二五(1950)年、村会の議決により復活し、以後は現在まで続いている。
 古くは旧正月から3月15日の諏訪神社祭礼までの期間に、他の集落をも踊り歩いたという。
 愛子の田植踊は、古の伝統を今に引き継ぐ踊りである。
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2007/7/26


はねこ踊り Haneko-odori 

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 宮城県石巻市桃生町で、四年に一度開催される寺崎八幡神社例大祭。その祭で、豊作の感謝を込めて奉納されるのが、はねこ踊りだ。
 この地域では、宝暦、天明、天保の時代に飢饉に見舞われ、村人達はそれでも豊作を願って神社に踊りを奉納していた。
 そんな中、ようやく大豊作の年を迎えることができ、百姓たちは今までの踊りにさらに飛び上がらんばかりの喜びを加え、踊りまわったのが始まりとされている。
 はねことはこの地方の方言で「跳ねる人」という意味を持ち、踊りの中にも豊作の喜びを表現した跳ねる様子を見ることが出来る。
 また、踊りの身振りの中には田植えや刈り取りを伺わせるような動作も盛り込まれており、飢饉に苛まれていた村人達の切なる願いが垣間見られるようである。
 そして、そんな状況を乗り越え、ようやく大豊作を迎えられた喜びを表す跳ねる動作。
 両手に扇を手にして練り歩くこの踊りには、当時の農民達の希望と喜びが凝縮されている。
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2007/2/15


本郷溜池 Hongou-tameike Hongo Storage Reservoir

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 本郷溜池は奈良県宇陀市、淀川水系本郷川に位置する溜池である。
 音羽山水源の本郷川をせき止めて取水した農業用の溜池。
 大宇陀町西部、北部の農耕地の水不足に備えたもので、総貯水量は30万立方メートル。
 奈良盆地は古くから溜池農業が主体で、明治以前から多くの溜池や井堰が作られて来た。本郷溜池は昭和十(1935)年に築造された新しい溜池である。
 水面にかかる展望テラスがあり、周囲を一望することが出来る。へらをはじめ多くの魚が自生しており、釣り客も多く訪れる。
 本郷溜池周遊道は桜の見所であり、四月には満開の桜が水面に映り周囲を桜色に染める。
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2007/1/30


内成棚田 Uchinari-tanada Uchinari Rice Terraces

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 大分県別府市の南側に位置する浜脇、内成地区の傾斜地に階段状に連なる水田群。
 平成十一(1999)年、農水省の「日本の棚田百選」に選ばれた。枚数1000枚、団地面積42ヘクタール。百選内でも5番目の面積を誇り、規模、景観共に九州地区屈指の棚田である。
 地区の歴史は古く、鎌倉時代の文章に名前が残る。
 石城寺の麓の湧水を水源として地元の集落の勢場、太郎丸、梶原が中心となり現在も耕作が行なわれている。
 休耕田もなく、集落全体により管理されており、棚田での農業体験イベント、棚田オーナー制度や棚田米の販売など存続に力が入れられている。
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