NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/8/1


鎌田流棒の手 Kamata-ryuu-bou-no-te Kamata-ryu Bo-no-te

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 天正の時代、岩崎城主丹羽勘助氏次(にわかんすけうじつぐ)が領民達の武術の指南役として鎌田兵太寛信(かまたへいたひろのぶ)を家臣として迎えた。寛信は武術の達人で特に棒術を得意としていた浪人であった。
 後に「小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)」においては勇戦した寛信であったが、戦後は戦没者の供養のため仏門に入り諸国を行脚した。
 郷里尾張を訪れた際、村民の懇願で、当地に鎌田流の道場を開設。やがて「鎌田流棒の手(かまたりゅうぼうのて)」は三河地方にも広まっていった。
 その後、農民の戦力であった棒の手は長い歴史を経て、農村の若者が演ずる農民芸能として神社の祭礼に奉納される行事となっていった。
 独特の掛け声で一・一メートルの棒を操る勇壮な姿は見物である。県の無形文化財に指定され、次の代に伝えるべく熱意を持つ人々によって今もなお技が磨かれ受け継がれている。
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2008/4/4


花取り踊り(高知県斗賀野) Hanatori-odori (Kouchi-ken Tokano) Hanatori Odori in Tokano in Kochi Prefecture

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 高知県高岡郡佐川町斗賀野地区では、白倉神社と美都岐神社の二ヶ所で花取り踊り(はなとりおどり)が開催される。
 花取り踊りは中世から伝わる「太刀踊り」の一種。花取城という難攻不落の城の前で、寄手(よせて)は里人を集め、太刀を抜き踊ってみせた。盆踊りかと城の護衛が油断したところを攻め取った、という逸話から生まれている。
 一一月初旬の朝、ワラで作った実物大の馬が境内に据えられ、二人の天狗が長い竹棒を手に立つ。やがて太鼓のリズムに合わせて花傘をかぶり、青い衣装に太刀をもった踊り手が12名ほど並んで鳥居をくぐって現われる。続いて元気なお囃子とともに子供神輿が登場する。
 踊り手はしだいに輪になって境内を踊りはじめる。剣舞のようないでたちで躍動感あふれる踊りだ。その間二人の天狗はその間観客に近づき、からかう。
 踊りはおよそ一時間続き、最後に餅投げをして終了する。
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2008/3/18


和ろうそく Warousoku Japanese Candles

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 和ろうそくは室町時代に中国から伝来し、江戸時代に最盛期を迎えた日本独自の製造方法で作られるろうそくのことである。
 作り方には藺草(いぐさ)の茎に和紙を巻いて作った芯に、木蝋(もくろう)を塗り重ねる、1本1本手作りの清浄生掛け(しょうじょうきかけ)と型に流して作る型流しがある。
 材料も西洋のろうそくはパラフィン、石蝋(せきろう)と呼ばれる石油から分離したものが使用されるが、和ろうそくはウルシ科の落葉高木である櫨(はぜ)の実を乾燥させた木蝋を主原料としている。木蝋の特徴は煤が少ないことである。形も棒形と碇型があり、ろうが垂れても、みにくくないように考えられている。
 和ろうそくは寺社にはかかせないもので、ろうそくの炎の揺らぎがどこまでも神秘的で、違う時間の流れの中にいるようである。
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2008/3/7


びらびら簪 Birabira-kanzashi 

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 びらびら簪(びらびらかんざし)は、未婚女性向けの簪である。
 簪は、女性が髪を結う時に使う日本の伝統的な装身具であり、特に江戸時代後期には様々な種類の物が作られ、髪を飾った。
 びらびら簪は、天明年間(1781~1789)頃から流行した簪で、銀製の鎖、細い棒状、または板状のものが簪の端部分から垂れ下がった形状をしている。
 鎖、棒状の先には玉や蝶・鳥などの飾り物がついているものが多いのが特徴とされる。
 江戸では俗に「びらびら」と呼び、多くは童女、未婚女性がつける簪とされており、裕福な商人の娘などが使っていた。
 歩くたびに揺れるところに人気があり、鎖の先の鈴や珊瑚など装飾物が、微かな音をたてる。
 びらびら簪は、今でも若い女性をひきつける魅力を持った、伝統工芸品である。
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2008/2/29


ちょいのちょい Cyoi-no-cyoi 

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 ちょいのちょいは、鹿児島県指宿市小牧地方に伝わる民俗芸能である。
 第一七代島津家藩主・島津義弘(1535~1619)が、朝鮮出兵する際の凱旋祝いとして唄い踊られたとか、朝鮮出兵後、帰国祝いとして始めたと伝えられ、今でも祝い事やイベントの時に踊られている。
 唄は、戦国時代の武士の唄らしく、勇ましくて男らしい曲調が感じられる内容である。
 踊りは、色物の着付に鉢巻・たすき・手甲・足絆・足袋・草鞋・刀・扇子の派手な出で立ちで、太鼓や鉦をならしながら、2人1組となって踊る。
 棒踊のように打ち合わず、二人一組で身ぶり・手ぶりを交えて踊るのが特色とされる。
 ちょいのちょいは、いかにも戦国時代から伝わるものらしい、勇壮な郷土芸能である。
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お田植踊り Otaue-odori Otaue Dance Festival

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 鹿児島県南さつま市金峰町のお田植踊り(おたうえおどり)は、毎年四月二九日に尾下南方神社(おくだりみなみかたじんじゃ)で行われる、五穀豊穣を祈願する郷土芸能の祭りで、約四〇〇年にもなる長い歴史がある。
 この金峰町の七、八地区の集落の、総勢一五〇人程の男子が踊り子となり参加する。衣装や鉢巻き、踊り方は集落によって少しずつ異なっている。
 尾下南方神社から出発し、鎌踊、薙刀踊、棒踊、金山踊等の踊り行列を作り町内を練り歩く。口伝えである古老の唄と、真っ赤な纏(まとい)の地突き音に合わせて力強く舞い、観客たちは、夕方近くまで行われるこの風流な踊りに歓声をあげる。昔は夜を徹して踊られていたという。
 お田植踊りは、現在でもしっかりと伝統を受け継ぎ、人々の手で守られている踊りである。
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2008/2/5


上名 棒踊 Kanmyou Bou-odori 

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 姶良町(あいらちょう)は、鹿児島県のほぼ中央に位置し、薩摩半島と大隅半島のちょうど中間に位置する町である。姶良とは、女性の顔が美しく手元が器用との意味がある。
 二月の黒島神社の例祭日に五穀豊穣を願って奉納されるのが、古くから伝わる伝統芸能、上名棒踊(かんみょうぼうおどり)である。
 棒踊の由来は、朝鮮の役の帰国祝いに踊られたという説と、串木野の住人であった三左衛門が伝授した踊りという説がある。
 この踊りは、唄い手二人、踊り子二四人で構成される。最初は縦二列で並び、道案内役であるどら打ちが先導する。二人に続いて三人、四人、六人の組になりながら、カシの棒を打ち合い、勇壮な姿で踊りを披露する。
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2008/1/29


【卜】 Boku Divination, Auguration

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 この字は、占いをするために事前に甲骨文を刻んだ亀の甲羅や獣骨に、意図的に加えられた裂紋の形です。占いの材料である亀の甲羅や獣骨の裏側を、穴をあけるために薄く彫り、その穴に鉄棒をつけて当てることで、反対側に現れる裂け目の模様を象っています。
 様々な卜の形の中でも、この字の形は吉の判断とされている形です。たての線は千里とよばれ、横線は坼(たく)と称されています。坼が途中でまがっていれば凶の意味になります。「卜」は、アジア文化の考え方の中心に吉凶がおかれたことを表す字の一つでもあります。
 骨には牛の肩骨などや、鹿の角や頭骨、犀のメスの助骨など、獣骨や虜の人頭が使われていました。亀の甲羅には、腹と背の二つがありますが、甲羅の甲の字は、腹部の方の平面で四角い甲羅の形を象っています。背部(背甲)に字が刻まれているのもまれにありましたが、ほとんどみられることはありません。背甲は丸くてとても硬いので、占いの裂紋をつけるために穴を彫るのが難しいのです。
 西洋における漢字の研究では、「甲骨文」の訳語として、腹甲、背甲のはっきりしない言葉が使われていることが多いので、本来の姿や正しいイメージが見えない状況です。もともとは腹甲を象っていた「甲」の字が、甲羅・亀甲などのように背甲を示す言葉として用いられるようになったこともその原因の一つです。
 
■ 卜・甲骨文(こうこつぶん)
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