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2008/9/1


入海貝塚 Irimi-kaizuka 

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 入海貝塚(いりみかいづか)は、入海神社の境内千二百平方メートルにわたる区域にあり、縄文時代早期の遺跡で知られる。
 大正時代からたびたび発掘が行われ、知多半島北部貝塚群の中心的な遺跡であることが判明した。約七千年前の縄文初期から人が暮らしていたものと見られ、また、表の層から弥生式土器も見つかっており、原始時代を通じて重要な生活場所であったことがわかる。
 先のとがった尖底(せんてい)土器、つまり突帯にヘラなどで刻みを入れているのが特徴で「入海式土器」の標識遺跡として認定され、縄文時代の人々の狩猟生活を知る上で重要な役割を果たしている。昭和二八(1953)年に国指定の文化財史跡に指定された。
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2007/11/5


日の出山瓦窯跡群 Hinode-yama-gayou-seki-gun The Group of Tile Kiln Site at Hinodeyama

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 日の出山瓦窯跡群(ひのでやまがようせきぐん)は、宮城県加美郡色麻町四竈東原にある窯跡群である。国の史跡に指定されている。
 奈良時代初期、東北の政治行政の中枢であった陸奥国の国府、多賀城の瓦を生産したといわれる窯跡群で、6地点が確認されている。
 田畑が広がるのどかな場所に、今でも窯跡の大きな穴があちこちに残っている。
 瓦には重弁蓮華文軒丸瓦(じゅうべんれんかもんのきまるがわら)・重弧文軒平瓦(じゅうこもんのきひらがわら)・丸瓦(まるがわら)・平瓦(ひらがわら)があり、須恵器の圷(あくつ)や高台付圷は静止糸手法でロクロから切り離される特徴が見られる。
 現在は史蹟公園化された中に、窯跡7基が保存されている。また、窯跡にはつつじが植えられており、周囲には植えられた芝生と共に豊かな緑を成している。
 日の出山瓦窯跡群は、かつては東北有数の瓦工場であった、貴重な遺跡である。
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木戸瓦窯跡 Kido-kawaragama-ato Kido Tile Kiln Ruins

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 木戸瓦窯跡(きどかわらがまあと)は、宮城県大崎市田尻沼部的場・北沢にある窯跡である。国の史跡に指定されている。
 昭和三三(1958)年と四九(1974)年に発掘調査が行われ、8世紀前半に多賀城創建時の屋根瓦を焼成した窯跡であることが判明した。
 構造は、いずれも地下式の窖窯(あながま)であり、重弁蓮花文(じゅうべんれんかもん)の軒丸瓦(のきまるがわら)、手描重弧文(てがきじゅうこもん)の軒平瓦(のきひらがわら)、平瓦・丸瓦・鬼板などが出土している。
 また、多賀城創建の頃、多賀城から40kmほど離れたこの大崎平野に、律令政府による郷里制および軍団制がすでに施行されていたことを示す極めて興味深い資料である、表面採集ながら「郡仲村郷他辺里長 二百長丈部呰人」と箆(へら)書きされた多賀城創建時の平瓦が見つかっている。
 木戸瓦窯跡は、古代の技術と文化が伺える遺跡である。
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小森古墳 Komori-kofun 

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 考古学では古墳時代を古い順に前期、中期、後期と三期に分けるが、各期に渡る古墳が集中する宇和町では、現在までに二〇〇を越える遺跡が発見されている。そのうち古墳の数は七〇基を超えるとされ、現在までその古墳のほとんどは円墳と推測されていが、唯一小森古墳のみが前方後円墳という。
 小森古墳は標高二四〇mのなだらかな山上に位置し、全長六〇m、後円部直径三〇m、高さは四mある。
 竪穴式石室と推定されているが詳細はわかっていない。後円部上及び墳丘北側から土師器片や多数の埴輪片が出土しており、築造年代は五世紀末頃と思われる。
 現地は立木を伐採しており、見学が可能である。小高い山を眺め、古代へ思いを馳せる時を過ごすのも楽しい。
 昭和三二年二月一六日町文化財に指定され、現在も発掘調査は続いている。
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2007/10/9


寸沢嵐石器時代遺跡 Suwarashi-sekki-jidai-iseki 

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 寸沢嵐石器時代遺跡(すわらしせっきじだいいせき)は、神奈川県相模原市相模湖町寸沢嵐にある縄文時代後期の遺跡である。国指定の史跡とされる。
 道志川と相模川の合流点近くの山すそに存在しており、石斧、石皿などの石器や、土器などが発掘されている。
 ほぼ完全な状態で発見された、正六角形の炉を中心にして、平らな河原石を長径4・3mの楕円形の範囲に敷き並べられた「敷石住居」跡である。
 近隣には、自生のカタクリ10万株が群生している「さがみ湖カタクリの郷」があり、毎年三月中旬から四月中旬にかけて公開されている。
 寸沢嵐石器時代遺跡は、新石器時代の暮らしが伺える貴重な史跡である。
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2007/10/4


亀ヶ岡遺跡 Kamegaoka-iseki Kamegaoka Site

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 亀ヶ岡遺跡(かめがおかいせき)は、青森県つがる市木造亀ケ岡に広がる縄文晩期の代名詞にもなっている遺跡である。
 元和八(1622)年に発見された遺跡で、大きなメガネ、あるいはサングラスをかけたような遮光器土偶が発掘された遺跡として有名になっている。
 遮光器土偶は明治二〇年に出土したもので、高さ34・5cm、胴体からすぐ頭部で、その異様な形、驚くほどの精緻さなどから、国の重要文化財に指定されている。
 他にも黒、朱、丹などの塗飾と彫刻風の多趣多様な文様、形状を有した壷、瓶などが出土し、当時の江戸では「亀ケ岡もの」は優れた芸術品として珍重されたという。
 現在、遺跡には遮光器土偶のモニュメントを置かれ、近くの高台にある縄文館では多種多様な出土品を展示している。
 亀ヶ岡遺跡は、古代のロマンを感じさせる大遺跡である。
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2007/9/18


橋牟礼川遺跡 Hashimure-gawa-iseki 

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 橋牟礼川遺跡(はしむれがわいせき)は、鹿児島県指宿市十二町にある縄文時代~平安時代にかけての遺跡である。国の史跡に指定されている。
 縄文時代は弥生時代よりも古く、縄文土器と弥生土器を使っていた人々は部族が違うのではなく、時代が違うという、今日では当たり前のような事を初めて立証した遺跡として有名である。
 先史時代のポンペイとも呼ばれ、5~6世紀の遺跡とは別に、貞観一六(874)年に開聞岳が大噴火した時の、火山灰で倒壊した建物跡や畑の跡、道の跡など、当時の集落がそのまま眠っている。
 現在、約2ヘクタールが史跡公園として整備されており、8世紀後半頃の竪穴式住居が4棟復元されている。また、貝塚や地層を見学できる展示施設も存在する。
 橋牟礼川遺跡は、古代日本を知ることが出来る貴重な遺跡である。
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2007/8/16


新田荘遺跡 Nittashou-iseki Nitta-no-sho Ruins

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 新田荘遺跡(にったのしょういせき)は、群馬県太田市に広がる国指定の史跡である。
 新田荘は、平安時代末期の12世紀中頃に成立した新田氏の荘園であり、新田義重によって開発され、今も新田氏ゆかりの館跡や神社、寺院などが多数残っている。
 この史跡は、新田荘に関連する円福寺、十二所神社、総持寺、長楽寺、東照宮、明王院、生品神社ら各寺社の境内と、反町館跡、江田館跡、重殿水源、矢太神水源の11の遺跡から構成されている。
 寺社境内・館跡・湧水地など、太田市・尾島町・新田町の1市2町に跨る、広域に存在する複数の中世遺跡を、荘園としてとらえている、珍しい史跡である。
 新田荘遺跡は、鎌倉時代から南北朝時代に活躍した新田一族の栄華と、日本の中世史を伝える貴重な史料である。
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