NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/9/29


姥山貝塚 Ubayama-kaiduka 

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 姥山貝塚(うばやまかいづか)は千葉県山武郡にある縄文時代中期から後期のものといわれる貝塚である。また、国の指定史跡である。
 大正一五年に東京人類学会が行った発掘調査では、一連の住居跡から、子供1体、成人女性2体、成人男性2体の計5体の家族と思われる人骨が発見されたという。また、竪穴住居址の全容が平面的に捉えられたのは日本では初めての事であったとされる。この事が姥山貝塚を全国的に有名になったとされる。
 貝塚の大きさは東西約130メートル、南北120メートルの馬蹄型(C字型)と呼ばれる貝塚である。
 発掘された土器の多くは縄文時代中期から後期にかけてのものが多く、共同墓地と思われるものも発掘されているという。
 現在、姥山貝塚は姥山貝塚公園として市民の憩いの場所ともなっている。
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2008/9/25


葛木二上神社 Katsuragi-futakami-jinja 

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 二上山(にじょうざん)は、標高五一七メートルの雄岳と雌岳の二峰からなるトロイデ式火山で、主に縄文時代、石器などの材料に使われたサヌカイトの産出地として知られている。この雄岳の山頂近くにあるのが、葛木二上(かつらぎふたかみ)神社である。地元では「権現さん」と呼ばれ、親しまれている。
 この辺りでは「岳のぼり」という、雨乞いの年中行事がある。これは、二上山からの水を利用する山麓の人々によって、古くからおこなわれてきた風習である。春になり稲作を開始する頃、二上山に登り、雨乞いを祈願するというものである。
 ご祭神は、別名・建御雷神(たけみかずちのかみ)とも呼ばれる豊布都御霊神(とよふつみたまのかみ)と、大国御魂神(おおくにみたまのかみ)である。御雷の名は雨を降らせる雷神のことで、雷は「神鳴り」ともいわれる。
 社殿は昭和四九(1974)年に焼失してしまい、現在の建物は昭和五〇(1975)年に再建された。
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2008/9/1


入海貝塚 Irimi-kaizuka 

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 入海貝塚(いりみかいづか)は、入海神社の境内千二百平方メートルにわたる区域にあり、縄文時代早期の遺跡で知られる。
 大正時代からたびたび発掘が行われ、知多半島北部貝塚群の中心的な遺跡であることが判明した。約七千年前の縄文初期から人が暮らしていたものと見られ、また、表の層から弥生式土器も見つかっており、原始時代を通じて重要な生活場所であったことがわかる。
 先のとがった尖底(せんてい)土器、つまり突帯にヘラなどで刻みを入れているのが特徴で「入海式土器」の標識遺跡として認定され、縄文時代の人々の狩猟生活を知る上で重要な役割を果たしている。昭和二八(1953)年に国指定の文化財史跡に指定された。
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2008/7/1


七里岩 Shichiri-iwa 

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 七里岩(しちりいわ)は、長野県諏訪郡から山梨県の峡北地方に舌状に広がる台地のことである。
 今からおよそ二五万年前に八ヶ岳連峰の阿弥陀岳付近を中心とした噴火が起こり、その際に発生した「韮崎岩屑流(にらさきがんせつりゅう)」と呼ばれる火砕流が形成した台地だ。
 台地の南側には釜無川、東側には塩川が流れ、それぞれが侵食崖を形成しており、高さ10mから40m、高いところでは150mにも達する断崖が連なっている。
 崖の南北の長さはおよそ28kmにも及び、昔はその長さが七里に相当したことから「七里岩」という名が付いたとされ、峡北地域における代表的な地質的景観を形成している。
 七里岩北部では水に恵まれいたため、縄文時代の遺跡が存在するなど、古くから人跡のある場所となっており、江戸時代には甲斐国の米どころとして発達した。
 また、台地の形が韮(にら)の葉に似ていることから、台地の先端地域は「韮崎」と呼ばれ、今のの韮崎市の名称になったともいわれている。
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2008/4/25


キウス周堤墓群 Kiusu-shuuteibogun 

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 北海道千歳市中心から東へ九キロ進んだところに「キウス周堤墓群(しゅうていぼぐん)」がある。
 今から三千年程前の縄文時代後期につくられた墓で、馬追(まおい)丘陵の緩やかな斜面に位置している。昭和五四(1979)年、約四万平方メートルの範囲が国の史跡に指定された。
 地面を丸く掘ったあと、その掘った土を周囲に土手状に盛り上げ、内側を墓地にしているのが特徴で、周囲に堤があることから「周堤墓」と呼ばれている。
 墓は指定地内に全部で八基あり、周辺のものを含むと二四基が発見されている。一番大きなものは直径が七五メートル、高さが五メートル、穴の深さは二メートルある。
 昔は「チャシ」と呼ばれる、アイヌの砦や城の跡だと思われ、「キウスチャシ」と呼ばれたこともあったが、その後石柱や墓穴が見つかり、大規模な墓地だということが判った。
 別名「環状土籬(かんじょうどがき)」とも呼ばれているこの場所からは、盛土遺構(もりどいこう)や竪穴住居、貯蔵穴なども発見されている。
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2008/4/22


和太鼓 Wadaiko Wa-daiko (Japanese Taiko Drum)

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 和太鼓(わだいこ)は、打楽器の一種であり、日本における太鼓の総称である。
 内部をくりぬいた、ケヤキなどの木でできた胴に主に牛の皮を張り、その皮を叩いて振動させて音を出す。
 構造が同じもので鼓(つづみ)があるが、手で叩くものを鼓、撥など道具を使って叩くものを太鼓と呼び、区別している。
 その歴史は古く、縄文時代にはすでに似たような構造のものが存在していたとされる。
 中世には、田楽などの庶民文化の発達などによってお囃子太鼓が隆盛し、戦国時代には陣太鼓、江戸時代には時報として江戸城内で太鼓を打つなど、人々の生活に根ざした音色を奏で続けていた。
 特に神と意思を伝達する手段、呪具として寺や神社で用いられていたことは、日本人の心に深く響く楽器となっている要因なのかもしれない。
 昭和に入ってからは様々な種類の太鼓を組み合わせた太鼓主体の音楽である組太鼓が出現し、日本人だけでなく外国の人々もその深い音色で魅了している。
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2008/4/8


朝顔のかんざし Asagao-no-kanzashi 

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 縄文時代頃にはすでに存在し、江戸時代にその文化が花開いた簪(かんざし)。
 時代の変化やそこから生み出された様々な髪形に合わせ、簪もまた多種多様に作られ、女性の髪を美しく飾ってきた。
 「朝顔のかんざし」は、現代になって再び注目されつつある簪の中でも平打簪と呼ばれる種類のものである。
 素材にはシルバー925が用いられ、それを丹念に磨き上げることでシルバーが持つ独特の艶と光沢を放っている。
 飾り部分には美しい意匠とアールヌーボー調の造形の朝顔が再現されており、細いツルや葉脈が彫り込まれた葉などにその作り込みの深さを見て取ることができる。
 清楚な朝顔が、陰影あるシルバーと相まって上品に仕上がっており、和装はもちろん、様々な装いで髪を美しく飾ってくれるだろう。
 優れたデザインと卓越した彫刻表現によって生み出されたその簪は、現代でもなお色あせることのない魅力を放っている。
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2008/2/29


池田湖 Ikeda-ko Lake Ikeda

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 池田湖(いけだこ)は、鹿児島県指宿市池田中浜にある周囲15km、広さ1091ヘクタールのカルデラ湖である。
 縄文時代の約5500年前に噴火して出来た、火山の陥没で生まれた湖で、最深部233m、湖底の火口丘は世界でも珍らしい九州最大の湖とされる。
 市の天然記念物に指定されている体長1・8m、胸回り60cm、体重20kgもの大うなぎが数多く生息する。
 湖畔からは郷土富士の一つである薩摩富士こと開聞岳を望むことが出来、ボートに乗って楽しむことも出来る。
 ジョギングやサイクリングのコースとしても多くの人が訪れ、一月には菜の花が咲き、二月いっぱいまで楽しめる。
 池田湖は、巨大なうなぎの群生で知られる神秘的な湖である。
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