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2008/10/8


都於郡城跡 Tonokoori-jyou-ato 

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 都於郡(とのこおり)城跡は、宮崎県西都市荒武にある城跡である。国の指定史跡に登録されている。
 建武二(1335)年、伊豆から下向した伊東祐持(すけもち)が足利尊氏からこの地を拝領し城を築いた。標高100メートルの高台にあり、三財川が外堀の役目を果たした。遠くからの眺望が、海原に舟が浮いているように見えていたことから別名「浮舟城」と呼ばれていた。しかし、天正五(1577)年、伊東氏は島津氏と木崎原の戦いで敗れ、落城となった。
 現在、城は原形をとどめておらず、空堀、土塁などが僅かに残るのみである。平成一三(2001)年から遺構確認調査が行われており、二の丸の一部から多くの柱穴や虎口の関連施設の遺構が見つかっている。
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2008/3/31


観音寺城跡 Kannonji-jou-seki Kannonji Castle Ruins

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 観音寺城跡(かんのんじじょうせき)は、滋賀県蒲生郡安土町石寺にある城跡である。国指定の史跡となっている。
 築城年代は明らかでないが、標高432・7mの繖山(きぬがさやま)、通称観音寺山に近江の守護・佐々木氏累代が居城し、同氏が六角と京極の二流に分かれてのちは、惣家六角氏の居城となった。
 永禄一一(1568)年、六角義賢・義治父子の時、上洛を目指す織田信長に進攻されて落城、以後は廃城となった。
 ほぼ全山を城域として、いたるところに石塁・土塁をめぐらし、大小無数の郭を構築した中世山城として全国有数の規模をもつ。
 山頂付近の西国札所の観音正寺周辺には巨石を組んだ石垣などが残り、ハイキング道としても楽しめる。
 観音寺城跡は、かつての佐々木氏・六角氏を偲ばせる史跡である。
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2008/2/27


滝山城 Takiyama-jou 

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 滝山城(たきやまじょう)は、東京都八王子市丹木町にあった城である。国指定の史跡となっている。
 永正一八(1521)年、山内上杉氏の重臣で、武蔵国の守護代・大石定重が築城したとされる。
 大石氏は後に、北条氏の軍門に降り、北条氏照は城の大改修を実施した。
 永禄一二(1569)年、小田原攻撃に向かう武田信玄軍2万人が滝山城の北側の拝島に陣をしき、北条氏と激戦となった。滝山城は三の丸まで攻め込まれたが、最後は2000人の寡兵でこれを凌いだ。
 落城は防いだが、滝山城の防備は不十分であるとして、これがきっかけで北条氏は八王子城を築城し、滝山城を廃城にしたという。
 現在、城跡は公園化され、遺構として曲輪、土塁、井戸、空堀などが残されている。
 滝山城は、地形を巧みに生かした、天然の要害であった城である。
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鉢形城 Hachigata-jou 

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 鉢形城(はちがたじょう)は、埼玉県大里郡寄居町鉢形にあった城である。国の史跡に指定されている。
 文明八(1476)年、山内上杉氏の家宰・長尾景信の嫡男、長尾景春が、家督を叔父の長尾景忠に継承させた事に怒り、復讐のために鉢形城を築城したとされる。
 景春は何度も山内上杉氏と戦い、鉢形城で籠城したが、最後には敗れて城を去っていった。
 戦国中期には北条氏のものとなり、北条氏の北関東支配の拠点となったが、天正一八(1590)年、豊臣秀吉の小田原討伐にて前田利家・上杉景勝らの連合軍に包囲され、落城。廃城となった。
 現在、城跡は史跡公園として整備されており、二の丸、三の丸、外曲輪などが残っている。秩父曲輪には庭園や四脚門・建物なども復元され、各曲輪は土塁と堀で区画されており、外郭には鉢形城歴史館が建設されている。
 鉢形城は、埼玉を代表する大規模で要害堅固な中世の城跡である。
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2008/2/18


るり姫祭 Ruri-hime-matsuri Rurihime Festival

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 毎年一一月二三日、愛媛県大洲市の白滝では滝に身を投げたるり姫の霊を供養する、るり姫祭が開催される。
 るり姫は滝之城城主の藤原行春の奥方である。滝之城は戦国時代末期に長宗我部軍に再三攻められ、城は落城した。るり姫を含み女性たちは、吹き針、薙刀、手裏剣で応戦し最後に白滝に逃れたが、追っ手は容赦しなかった。
 るり姫は二人の娘に生き延びる様言い聞かせ、2歳の世継ぎの尊雄丸(たかおまる)を抱いて60メートル下の滝壷(今の雌滝)に身を投げて自殺する。
 供養と子供たちの健康を祈願して、赤・白・ピンク・青などの美しい衣装を身に付けた少女たちと、花神輿を担いだ少年達の行列が行われ、るり姫塚前での法要の後、花神輿を滝壷に投げ入れる。この後、舞踊や豊年踊りなど郷土芸能が行われる。
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2008/2/7


木牟礼城趾 Kinomure-joushi 

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 木牟礼城趾(きむれじょうし)は鹿児島県出水郡にある城跡である。
 文治二(1186)年近衛家に仕えていた島津忠久が薩摩、大隅、日向三国の地頭職に任ぜられた。忠久は家臣の本田貞親に命じて、山門院、現在の野田町、高尾野などの地区に木牟礼城を築き三州(三国)を監視した。島津忠久自身は居城することはなかったが、本田貞親は城内に竹林城を築き、ここを居住地としていたと伝えられている。
 その後、島津忠久は鎌倉幕府の信頼を厚く受け、この城を中心に島津三州支配の基礎を作ったといわれている。
 しかし、南北朝時代に入ると島津氏の総州家と奥州家両家で勢力争いが起き、木牟礼城を拠点としていた総州家の島津守久は奥州家の久豊に攻められ、城は落城してしまい、木牟礼城もその役割を終えてしまったのである。
 現在は高尾野町江内の国道3号線沿いの台地に忠久を祀る「龍尾神社(若宮神社)」があり、笠懸道、水の手口、西御門等の跡が残り、石碑が建てられている。
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2007/12/10


臼杵城 Usuki-jou 

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 臼杵城(うすきじょう)は、大分県臼杵市臼杵にあった城である。別名、丹生島城(にゅうじまじょう)とも言われる。
 永禄五(1562)年、臼杵湾に浮かぶ周囲4kmの丹生島に大友宗麟(おおともそうりん)によって築城され、宗麟はそれまでの大友氏代々の居城・府内城(ふないじょう)からこの城に移った。
 天正一四(1586)年、島津氏の大軍によって落城して後は城主は転々とし、慶長五(1600)年、稲葉氏の居城となり、以後明治維新まで続く事となる。
 明治一〇(1877)年の西南の役では、臼杵士族隊と西郷隆盛軍の間で戦いが始まったが、臼杵城は一日で落城、廃城となった。
 現在、城郭主要部は公園として整備され、石垣、空堀が残る。また、二の丸に畳櫓が、本丸に切妻造りの卯寅口門脇櫓が、それぞれ現存している。
 臼杵城は、今でも地域の人々に慕われている城跡である。
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2007/10/31


一郷山城跡 Ichigousan-jyou-ato Ichigoyama Castle Ruins

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 一郷山(いちごうやま)城は、群馬県の吉井町にある標高491メートルの牛伏山の東峰にそびえる城。山頂にあることから、戦国時代には、のろし代として使われたと推測される。現在、遺構はまったくなく、三層の模擬天守閣が当時のおもかげを偲ばせるのみである。
 東には堀を隔てて東閣があり、南にも同様に南閣がある。室町時代の上杉氏の居城、平井城の別城であったとされる。永禄六(1563)年に武田信玄に攻められ、落城した。
 現在は牛伏山自然公園として整備され、市民の憩いの場として親しまれている。模擬天守閣の1階には吉井町の物産品を、2階に歴史的な資料を展示している。3階には展望台があり、360度のパノラマを楽しめる。
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