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2008/6/30


津城(安濃津城) Tsu-jou(Anotsu-jou) 

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 津城(つじょう)は、三重県津市丸の内にあった城である。別名・安濃津城(あのつじょう)とも呼ばれる。
 永禄年間(1558~1569)に、長野氏の一族・細野藤敦(ほそのふじあつ)が安濃・岩田の両河川の三角州に小規模な安濃津城を構えたのが、始まりとされる。
 北は安濃川、南は岩田川に挟まれ、これらを天然の大外堀としていた要害である。
 以後、何人か城主を替え、慶長一三(1608)年、藤堂高虎が伊勢・伊賀22万石をもって入城した。高虎は城の大改修に着手し輪郭式の城郭に変貌させ、城下町を整備し、明治維新まで藤堂氏の居城となった。
 現在、城跡はお城児童公園となっており、北側の本丸石垣には、築城時の石垣に修築時の石垣が継ぎ足された様子が伺える。
 津城は、戦国時代を生き抜いた歴戦の城である。
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2008/6/26


日和佐城(渭津城) Hiwasa-jou(Inotsu-jou) 

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 日和佐城(ひわさじょう)、別名、渭津城(いのつじょう)は徳島県の日和佐湾に突き出ている半島の先端の標高65メートルの丘に設けられた城である。
 築城は天正時代の初め頃、この地の豪族、日和佐肥前守が阿波制覇をもくろむ土佐の長宗我部勢に対する防御のために築かれたとされている。東方は絶壁となり、北方の山麓は日和佐川が流れ、西方は入江に接し、三方を海川の水面に囲まれた要害の地としては最適のものであった。しかし、城に関しての文献はほとんどなく、地形を匠に利用した城という以外は、その規模も形状もあまり判明していない。また、過去には石垣の跡が点在していたというが、現在は見当たらない。
 現在、城跡には観光のために作られた三層から成る白亜の模擬天守閣が設けられており、頂上からは日和佐湾を一望できる。そのため、訪れる観光客も多い。
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2008/6/25


川島城(蜂須賀城) Kawashima-jou(Hachisuga-jou) 

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 川島城(かわしまじょう)は徳島県吉野川市を流れる吉野川に突き出た岩の鼻と呼ばれる絶壁に築かれた城である。要害堅固な城として有名であった。
 室町末期、領主の細川氏を凌ぐ勢いであった三好氏の家臣、川島兵衛之進が築いたために川島城と名づけられた。
 天正一三(1585)年、豊臣秀吉に阿波の国を与えられた蜂須賀家政は、阿波の国の防御として家老の林能勝を城主とし、警護に当たらせた。そのため蜂須賀城とも言われている。その後、江戸時代になり元和元(1615)年には、一国一城令が定められ、川島城は廃城となった。
 現在、川島城跡には川島万葉植物園が建てられている。また、本丸跡である岩の鼻には展望台が設けられ、二の丸跡には川島神社が建立されている。その東側には観光用に三層から成る模擬天守閣がそびえている。
 岩の鼻の展望台から吉野川を眺めると、その断崖の高さに驚かされ、この城がいかに堅固な城であったかを教えてくれる。
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岩村城(霧ヶ城) Iwamura-jou(Kiriga-jou) 

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 岩村城(いわむらじょう)は、別名「霧ヶ城」とも呼ばれ、日本三大山城の一つで標高七二一メートルの位置にある。天然の峻険な地形を活用した要害堅固な山城で、全国で最も高地にある山城である。
 源頼朝の挙兵に際し手柄をたて、岩村遠山荘を与えられた加藤景簾(かとうかげかど)が、文治元(1185)年に築城したもので、姓も遠山と改め、代々遠山氏の居城となった。
 岩村城は、女城址の里と呼ばれ、城主が女性だったことがある。織田信長の叔母で、岩村城主・遠山景任(とおやまかげとう)の妻であった、通称「お直の方」が、主君亡き後に武田氏との攻防に際して城主として死守した。そして領民と将兵を助けるために、敵将武田方家臣である秋山晴近と再婚したという話が伝えられている。
 城内には一七にも及ぶ井戸があり、八〇〇年もたった今でも十数個の井戸が今も水をたたえている。
 建物は明治維新により廃城され、その後明治六(1873)年に取り壊された。
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2008/6/23


鳥羽城 Toba-jou 

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 鳥羽城(とばじょう)は、三重県鳥羽市鳥羽にあった城である。
 平安時代の末期、橘氏がこの地を領し、居館を築いて鳥羽殿と呼ばれていた。戦国時代に入り、伊勢波切城主であった海賊・九鬼嘉隆は織田信長を後ろ盾にして橘宗忠を攻略、宗忠の娘を妻として鳥羽城を奪い取り、一円を支配した。
 文禄三(1594)年、九鬼嘉隆(くきよしたか)は鳥羽湾に浮かぶ小島に海城・鳥羽城を築いた。
 九鬼氏は信長、秀吉配下として活躍したが、徳川時代になってお家騒動で分裂し、以後は次々と城主が入れ替わり、享保一〇(1725)年、稲垣昭賢が入城、明治維新まで続いた。
 現在、本丸が小学校のグラウンドとなり、市役所・城山児童公園・旧鳥羽幼稚園などが城跡に造られていて、僅かに石垣が遺構として残っている。
 鳥羽城は、海賊・九鬼氏ゆかりの天然の要害であった城である。
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2008/5/26


三田城跡 Sanda-jyo-ato 

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 三田城跡(さんだじょうあと)は、兵庫県三田市屋敷町にある城跡である。
 天正二(1574)年、伊丹城主・荒木摂津守の武将である荒木平太夫の居城として車瀬城を築城し、門前集落を基礎とした城下町が建設された。
 戦国時代末期から、山崎堅家、有馬則頼、松平重直と城主が代わり、寛永一〇(1633)年、志摩鳥羽の九鬼久隆が三万六千石の大名として入封した。同時に以前からあった車瀬城を廃し、三田城を築いた。
 城跡は現在の三田小学校のあるところで、有馬高校実習園が二の丸跡となっている。三田小学校前には城跡碑があり、有馬高校との間にわずかに内堀が残る。
 大池は三田城の堀であった所で、九鬼氏が山間の三田に移されても九鬼水軍の昔を忘れぬように、と舟艇操縦の練習をした場所である。
 三田城跡は、三田市の中心にある、かつて要害だった城跡である。
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2008/2/27


滝山城 Takiyama-jou 

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 滝山城(たきやまじょう)は、東京都八王子市丹木町にあった城である。国指定の史跡となっている。
 永正一八(1521)年、山内上杉氏の重臣で、武蔵国の守護代・大石定重が築城したとされる。
 大石氏は後に、北条氏の軍門に降り、北条氏照は城の大改修を実施した。
 永禄一二(1569)年、小田原攻撃に向かう武田信玄軍2万人が滝山城の北側の拝島に陣をしき、北条氏と激戦となった。滝山城は三の丸まで攻め込まれたが、最後は2000人の寡兵でこれを凌いだ。
 落城は防いだが、滝山城の防備は不十分であるとして、これがきっかけで北条氏は八王子城を築城し、滝山城を廃城にしたという。
 現在、城跡は公園化され、遺構として曲輪、土塁、井戸、空堀などが残されている。
 滝山城は、地形を巧みに生かした、天然の要害であった城である。
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鉢形城 Hachigata-jou 

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 鉢形城(はちがたじょう)は、埼玉県大里郡寄居町鉢形にあった城である。国の史跡に指定されている。
 文明八(1476)年、山内上杉氏の家宰・長尾景信の嫡男、長尾景春が、家督を叔父の長尾景忠に継承させた事に怒り、復讐のために鉢形城を築城したとされる。
 景春は何度も山内上杉氏と戦い、鉢形城で籠城したが、最後には敗れて城を去っていった。
 戦国中期には北条氏のものとなり、北条氏の北関東支配の拠点となったが、天正一八(1590)年、豊臣秀吉の小田原討伐にて前田利家・上杉景勝らの連合軍に包囲され、落城。廃城となった。
 現在、城跡は史跡公園として整備されており、二の丸、三の丸、外曲輪などが残っている。秩父曲輪には庭園や四脚門・建物なども復元され、各曲輪は土塁と堀で区画されており、外郭には鉢形城歴史館が建設されている。
 鉢形城は、埼玉を代表する大規模で要害堅固な中世の城跡である。
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