NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/7/25


京都 保津川下り Kyouto Hozugawa-kudari Boat Ride down the Hozu-gawa River, Kyoto

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 京都の保津川下り(ほづがわくだり)は、京都府亀岡市保津町~京都市嵐山まで約16kmの渓流を、約2時間で下る舟下りである。
 川下りというのは、長岡京に都があった頃(784~794)から、保津川の水流を利用して下流にある京都・大阪に物資を輸送する事にはじまった言葉で、いわゆる水運の事である。
 慶長一一(1606)年、角倉了以(すみのくらりょうい)が、木材・薪炭など丹波地方の産物を京へ送るための産業水路として開いた。これが、保津川下りの起源とされている。
 今では、日本一の川下りとして、国内はもちろん世界的にも良く知られている。
 曲がりくねった狭い川筋は、激流岩を生んで、かいの音が木霊し、谷間ではウグイスが鳴き、夏はかじかの涼やかな合唱が聞こえる。
 保津川下りは、桜、岩つつじ、新禄、紅葉、雪景色など四季折々の景観も魅力的な舟下りである。
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2007/6/21


岡崎宿 Okazaki-juku Okazaki-juku

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 岡崎宿(おかざきじゅく)は、東海道五十三次、三八番目の宿場。現在の愛知県岡崎市である。
 五万石の城下町であり、宿場町としての規模も大きく、矢作川と乙川が合流する地域だったため「五万石でも岡崎様は、お城下まで舟が着く」という唄が歌われていたほど水運の要の町であった。
 江戸時代には、徳川家康の生誕の地でもあったため別格の扱いを受け、代々、大名の中でも特別な役職を担う譜代大名を置くことでもそれが伺える。
 天正一八(1590)年に岡崎城主となった田中吉政は岡崎の郊外にあった東海道を城下町の中心を通るように変更。城の防衛のため、「二十七曲」と言われる多くの曲がり角がある道路整備を十年かかって造り上げた。
 この二十七曲は現在にも岡崎の町に残っており、石碑にはこの曲がどのように市内を通っているのかを見ることができる。
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2007/5/8


加茂川と土蔵 Kamogawa-to-Dozou The Kamo River and the Storehouses

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 鳥取県米子市天神町付近にある加茂川と土蔵は、日本情緒溢れる町並である。
 商都として栄えた米子には、江戸時代から明治にかけての佇まいが随所に残され、旧加茂川岸に建ち並ぶ白壁の土蔵と数多く架けられた橋が、江戸時代に商港として栄えた往時の面影を偲ばせている。
 旧市役所の横から米子港へ下る加茂川に沿って古い商家の家並みが続き、なまこ塀の土蔵や連子窓の家が川面に影を映す。
 江戸時代に海運業を営んだ後藤家もあり、この古い家構は国の重要文化財に指定されている。
 町並みを水面からゆったりと眺められる遊覧船もあり、昔懐かしい風景に浸ることが出来る。
 加茂川と土蔵は、米子市を象徴する江戸情緒一杯の場所である。
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2007/4/25


哲学の道 Tetsugakuno-michi 

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 「哲学の道」は、京都府京都市左京区にある遊歩道である。昭和61年に「日本の道100選」に選ばれた。
 明治に滋賀県大津と京都市を結ぶ水運・上水道の確保のために作られた、「琵琶湖疎水」平行して隣接している。その距離は2キロメートル。桜並木、ゆきやなぎの木が約600本が並んでおり、春には関雪さくらが満開に、秋には紅葉に色づき、四季を通して観光客で賑わう。
 初夏には、日本ではめっきり少なくなったという「ゲンジボタル」が飛び交い、地元の人たちの癒しの場所として、貴重な存在になっている。
 哲学者「西田幾多郎」らが好んだことで「思索の小径」と呼ばれていたが、いつしか「哲学の道」と呼ばれるようになったといわれている。
 
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2007/3/23


富士川 Fuji-gawa 

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 富士川は、長野県、山梨県、静岡県をまたがって流れる富士川水系の本流。日本三大急流のひとつに数えられる。
 「富士川」の名前は、古く駿河人による「不尽川」と詠んだ万葉の歌に由来する。また、駿河では富士山の水を集めて流れる河との認識があり、富士川と呼んだと考えられる。
 その昔は、内陸の甲斐南部と駿河の交通路として、古くから水運が利用された。江戸時代には、駿河国と甲斐国(現・増穂町・鰍沢町)との間に富士川渡船が開始、甲斐国は幕府の天領であったため、江戸への廻米輸送を中心に水運が発達したそうだ。明治時代に入ると、廻米輸送がなくなり衰退するが、三河岸の商人による起業で明治七年には富士川運輸会社が設立され、発展。鉄道の敷設により再び水運は衰退、現在の東海道線の開通とともに水運としての使命を静かに終えた。
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2007/3/22


眼鏡橋 Megane-bashi 

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 眼鏡橋は、2連のアーチが、水面に写る部分と合わせると眼鏡のように見えることからその名がついた。日本三名橋に数えられている。
 長さ22.35メートル、幅4.68メートル、総高5.23メートルの日本最古の石造アーチ橋は、長崎県を流れる中島川に架かっている。
 長崎開港(1570年)から出島が置かれた鎖国時代、貿易のための水運利用により町の中心となった中島川に架けられた橋の数は最多時17〜18基。しかし、幾度となく崩流滅失。眼鏡橋も昭和五七(1982)年の長崎大水害で一部崩壊したが、流された石を集めて翌年復元された。
 橋の向こうに夕日が沈む景色は雄大で見ごたえがある。また、河畔は中島川公園として整備され、散策に最適。夜はライトアップされ、こちらも必見だ。
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2007/3/7


古河城 koga- jyou 

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 古河城は茨城県古河市、渡良瀬川の東岸に位置した城である。
 鎌倉時代、この地を支配した下河辺行平が築城、当時は古河御陣の名で呼ばれた。
 康正元(1455)年、鎌倉公方足利成氏が鎌倉からこの地に移り根拠とし、古河公方を称して周囲へ勢力を広げた。
 天正十(1582)年に古河公方断絶の後は豊臣秀吉により破却、その後、徳川家康の命により復興し、明治維新まで幕府重臣に城主が任ぜられた。
 日光東照宮への参道であり、水運の要所であったことから城下町としても栄え、天主である御三階櫓や多くの櫓を持つ城であったが、廃藩置県で廃城。大正年間の渡良瀬川の大改修により城址の大半は水没し、現在残るのは福法寺に移築された乾門と一部の土塁のみである。
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2007/2/20


久保田城 Kubota-jyou Kubota Castle

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 久保田城は、秋田県秋田市にあった城である。
 久保田城は慶長8(1602)年、秋田に入部した初代秋田藩主の佐竹義宣が、所領の中央部に位置し、雄物川の水運が利用でき、河口の湊に近いという好条件の神明山に新築した城である。
 矢留城、葛根城とも呼ばれ、天守閣と石垣のない城として知られる。明治13(1880)年、火災により本丸が全焼すると、同23(1890)年、公園として解放された。
 現在、久保田城のあった一帯は千秋公園となり、緑の多い県民会館や市立図書館、平野政吉美術館などが整備されている。
 近年になって、本丸新兵具隅櫓、本丸表門などが再建された。
 久保田城は、地元のシンボルとして長い間町の発展を見守ってきた、歴史ある城である。
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