NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/6/24


大野勇太郎 Oono Yuutarou Yuutarou Ohno

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 1935年、東京都生まれ。株式会社大野精密・代表取締役社長。
 北豊島工業高校卒業後、8ミリカメラ製作会社へ入社。1978年に歯車製作の株式会社大野精密を起業。大野氏は江戸時代のからくり人形を高精度の歯車製作の技術を駆使して現代に蘇らせている。
 工学書で「からくり人形」の存在を知ったことをきっかけに、細川半蔵の著書「機功図彙(からくりずい)」という解説書の複製を入手。本業の合間に解読を進め、それから約二〇年もの間、茶運び人形・指南車・からくり時計などを作り続けている。細川半蔵とは江戸時代に「からくり半蔵」と呼ばれた技術者である。
 顔と衣裳を除いた、約八〇点ほどの部品を使い組み立てられる人形は、なるべく当時の方法を残すようにして作られているという。江戸時代と現代が融合した機能美がここにある。
 今後は弓を引いて的に当てる「弓張り童子」の復元をしたいという大野氏。江戸時代の先達に敬意を持ちながら、からくり人形を通じてものづくりのロマンを現代に伝え続けている。
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2007/11/15


吉田啓子 Yoshida Keiko Keiko Yoshida

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 浅草・鷲(おおとり)神社の酉の市のみで販売される縁起物の宝船熊手の製造販売「よし田」(台東区千束)大女将。大正一〇(1921)年生まれ。日本職人名工会認定者。
 「よし田」は現在、昔ながらの手法で宝船熊手を作り続けている唯一の店で、吉田啓子(よしだけいこ)さんは江戸時代から伝わる代々の技法を受け継ぐ職人である。鳶職であった夫が始めた宝船熊手の製造を内職のつもりで手伝ったことが職人となるきっかけ。夫が亡くなって以降は、「よし田」の女将として製造販売を取り仕切ってきた。
 「よし田」の宝船熊手は竹と紙という天然素材だけを使ったもので、竹割り、下絵の型抜き、色つけ、面相(顔描き)、外塗り、刺し込みなどすべて手仕事で行われている。この技法は、現在の女将で長女の吉田京子さんが受け継いでいる。
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宝船熊手 Takarabune-kumade Takarabune-kumade (Treasure Ship Rakes)

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 毎年一一月に催される酉の市。その発祥の地とされる浅草・鷲(おおとり)神社の酉の市だけで販売される縁起物が宝船熊手だ。製造販売している店は現在、浅草「よし田」のみ。サイズは二寸から一尺三寸まであり、酉の市が終わった日から一年かけて作られる。
 型で切り抜いた紙に線を描き、絵の具で彩色。面相(顔描き)をすませた人形を宝船に刺し込み、全体のバランスを整えれば完成。特に難しいのが表情を描き分けなければいけない面相だ。この手描きの手法は江戸時代から代々受け継がれてきたもの。現在は「よし田」大女将の吉田啓子さん、長女の京子さんが継承している。
 七福神や財宝、鯛などが鮮やかに彩られ、注連縄の先端を船の舳先に似せて熊手全体が宝船に見立てられているのが特徴。全体に赤い色を使っていることから「赤物」と呼ばれている。鷲神社の酉の市で最も人気の高い縁起物のひとつである。
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2007/9/21


万之瀬川 Manose-gawa The Manose River

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 万之瀬川(まのせがわ)は、鹿児島県南さつま市加世田、川辺町、金峰町を流れる延長30kmの二級河川である。
 さつま半島最大の川で、鹿児島市に源を発し、南さつま市加世田の吹上浜で東シナ海にそそぐ。
 吹上浜は、この万之瀬川が運んだ砂で出来ていると言われる。また、万之瀬川支流長谷川には金峰ダムが存在する。
 蛇行していた河口部は、江戸時代の洪水で現在の流れになったとされ、用水路を利用した水車カラクリの伝承地としても知られる。
 ハマボウなどの海浜植物、ハクセンシオマネキなどの干潟の生物、クロツラヘラサギなどの野鳥が生息し、川と海が合流する生息環境は、種の多様性やその規模について全国的にも大変貴重なものであり、重要湿地に指定されている。
 万之瀬川は、流域に河添の滝、甌穴などの奇勝も存在する、豊富な自然を誇る川である。
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2007/8/9


中馬街道 Cyuuma-kaidou The Chuma Kaido Road

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 愛知県豐田市足助町新町を走る国道366号線。江戸時代この付近の道は、中馬街道と呼ばれていた。中馬街道は、三河から足助を通り、信州の産物を名古屋・京都・大阪へ運ぶ最短路の物資輸送の街道として栄えた。
 信州の馬稼ぎ人たちの組合「賃馬」「中継馬」が中馬の語源と言われている。
その名の通り、「入馬千駄出馬千駄」とうたわれ、最繁栄時には約七千数百頭の馬が活躍していたと言われている。
 明治後半、中馬街道の中継地として栄えていた足助も、中央線の開通により、宿場町としての機能も失われていった。
 今でも、足助町の中心部には江戸時代の町並みが随所に残っており、中央を流れる巴川には、当時の道が保存され、散策することができる。
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2007/8/2


柳津虚空蔵尊大祭 Yanaizu-kokuzou-son-taisai Yanaizu Kokuzoson Taisai (Grand Festival)

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 柳津虚空蔵尊大祭(やないづこくうそんたいさい)は、宮城県登米市津山町にあり、福島の会津柳津と山口の周防に並ぶ日本三大虚空尊の一つに数えられる柳津虚空蔵尊で、毎年四月と十月の十二~十三日にかけて行われる例祭である。
 その興りは奈良時代の神亀三(726)年、万葉集編纂で知られる僧・行基によって天下泰平、国家安泰を願って虚空蔵菩薩を刻み開基、創建されたとされ、奥州でも屈指の霊山・霊場の祈願寺として広く知られている。
 大祭では、正午から山海の珍味をお膳に盛り、行列して運ぶ「献膳行列」が行われ、その後に家内安全や交通安全、受験合格などを記した護摩祈祷が行われる。
 春と秋には県内外から大勢の参拝者が訪れ、今も篤い信仰を集めている。
 いつもの賑やかなお祭りとは違い、お膳を運ぶ荘厳な行列を見守り、炎と共に天に昇っていく祈祷に祈りを捧げる静かなお祭りも良いかもしれない。
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2007/7/13


ユルリ島 Yururi-tou Yururi Island

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 ユルリ島は、北海道根室市の根室半島の沖合に浮かぶ、小さな無人島である。北海道の天然記念物に指定されている。
 ユルリ島はアイヌ語で「鵜の居る島」という意味で、ウミウをはじめ、絶滅が心配されるエトピリカ、ケイマフリ、チシマウガラスなどの海鳥が繁殖している。
 標高40mの台状の島で、すぐ北にユルリ島より小さなモユルリ島を持つ。
 眼下に広がる草原の緑がまぶしく、昔、コンブを運ぶために飼われていた馬が、20頭あまりの野生化した群れとなって悠々と草をはむ。
 アザラシ、ラッコの繁殖地として絶好の生殖地となっており、絶壁の上には湿原が広がっていて、植物も300種が生育する。
 ユルリ島は、人間の入島が禁じられている神秘の島である。
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2007/7/11


本願寺 駅逓 Hongan-ji Ekitei 

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 駅逓(えきてい)とは、人や馬の往来などでの休息所として、宿と駅の機能を兼ね備えた施設だ。
 北海道雨竜郡沼田町にある本願寺駅逓もその一つであり、その「セガイ造り」の建物など、道内に現存する駅逓の中でも当時の様子を今もとどめている貴重な存在だ。
 本願寺という名称は、この駅逓が建てられた場所が、同寺の農業用地であったために付いた通称で、建物自体は明治二七(1894)年に建てられ、明治三三(1900)年に駅逓所として官設された。
 その建物は、道内にある駅逓では唯一の二階建てであり、そうした当時の様子を知るためにも非常に貴重な資料となっている。そのため、昭和四六(1971)年には道指定文化財として認定されている。
 当時の札幌もしくは旭川方面から、留萌方面へ向かう交通の要所として。また、奥地で開拓などに励んでいる人々に手紙を集配する郵便局として、この駅逓は重要な役割を果たしてきた。
 時代が流れ、運ぶものは変わっても、今も目の前の道を行き交う人々の流れは変わらない。
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