NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/11/22


浅沓 Asagutsu 

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 浅沓(あさぐつとは)屋外で執り行われる神事の際に神官が履く靴のことをいう。
 浅沓の歴史は古く、奈良時代の書物にその存在が記されている。もともとは公家や貴族の履物であったと言われている。
 その独特の光沢と重量感から木製であるように思われているが、実は和紙を幾重にも重ねて作られたものであり、内部には布が敷き詰められ、足の甲の部分には絹製の綿が詰められている。靴の表面には漆が何重にも塗られ、見事な光沢が品格すら感じさせる。製造には職人の巧みな技と精神が注がれており、和紙で作られているにもかかわらず、非常に硬く、しっかりした靴となっている。威厳と品格を重んじる神官の靴として独特の趣を醸し出している。
 江戸時代に入ると、伊勢神宮のある伊勢地方でも江戸時代から浅沓の製造がはじまり、現在でも昔ながらの技法を守り作られ続けているという。
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2007/11/20


八幡焼 Hachiman-yaki 

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 八幡焼(はちまんやき)は、島根県安来市広瀬町に伝わる工芸品である。県の伝統工芸品に指定されている。
 出雲の国広瀬は、その昔山陰の鎌倉といわれ、山陰山陽十一国を統治した尼子氏の月山富田城のあった山あいの郷である。
 享保八(1723)年、富田八幡宮神官・竹矢豊前と広瀬藩士・熊谷由武によって始められた。
 繊細な色あいの中にキラリと輝く鋭さを持ち合わせた青釉薬(あおゆうやく)を特色としており、青釉をほどこした食器や花器、茶器などが人々に広く愛用されている。
 呉須釉で「広瀬三万桶茶と茶漬」と謡われるぼてぼて茶用の茶碗なども知られており、釉薬と焼成の研究により木の葉天目、窯変などの作品にも力を入れている。
 最近は、伝統の茶陶のほか日用雑器なども焼かれている。
 八幡焼は、未だ日夜研究を続けられている伝統工芸品である。
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2007/10/31


笏拍子 Shakubyoushi 

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 笏拍子(しゃくびょうし)は、日本に古来より伝わる伝統的な音楽、雅楽で用いられる楽器の一つであり、各種ある雅楽器の中でも最も簡単な造りをしている。
 その形は、平安時代の貴族や神社の神官が持っている笏を二つに割ったような形をしているが、当初は二枚の笏が用いられていたという。
 長さはおよそ35cm、厚さは1.2cmほどで、上の方が幅広く下のほうが狭くなっている。
 材質に特に決まりはないとされるが、実際の笏と同じ材質であるイチイや、音質の良さからケヤキを用いることもある。
 その用法は、左は真ん中の合わせ目を奏者の方に向け、左の側面に右の合わせ目を強く打ちつけて音を鳴らすもので、歌の主唱者がこの笏拍子を打って、全体の速度である拍子を決めていく。
 主に国風歌舞や古代歌謡の一つである催馬楽(さいばら)など、謡物(うたいもの)で用いられている。
 この楽器が打ち鳴らす音により雅楽の雅な音色と歌は、よりいっそうの魅力を増す。
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2007/9/25


米倉鹿嶋神社 献饌行事 Yonekura-kashima-jinja Kensen-gyouji The Kensen Ritual at Yonekura Kashima Shrine

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 米どころ宮城の中心的役割を果たしているのが大崎市。ササニシキ、ひとめぼれなどが誕生した地として知られている。市役所から一キロ程の米倉(よねくら)地区にある鹿嶋(かしま)神社では、毎年九月九日と一〇日の二日間にわたり、献餞(けんせん)行事が執り行われる。献餞とは神道の祭式で、祝詞(のりと)を上げるに先立って、神官が神前に食物を供えることをいう。
 米倉鹿嶋神社は大崎開拓以来の古社とされ、戦前までは清和源氏足利氏(せいわげんじあしかがし)の一門・大崎氏の遺臣が祀ってきたが、その後は地域民も加わり祭事を続けている。初日は初穂献上に始まり、その他の儀を経て、神酒を戴き神饌を食する直会(なおらい)に至る。翌日の神輿巡幸をもって終わる。穀物の収穫に感謝する静かなこの祭事は、県の民俗文化財、風俗習慣に指定されている。
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2007/9/11


牡鹿法印神楽 Oshika-houin-kagura 

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 牡鹿法印神楽(おじかほういんかぐら)は、宮城県北東部の牡鹿半島一体に古来より伝えられる伝統芸能である。
 法印とは、修験者や神官のことを表し、彼らの修験の一つとして、行われた儀式である。
 牡鹿法印神楽の起源は約六百年前という説もあるが、今も定かではない。
 稲井や渡波(わたのは)地区の修験者の間に伝わったものといわれ、独特の郷土色が残されており、動きの早い南部神楽とは異なり、ゆっくりした動作が特徴である。また、その所作には特別な踏み方があり、修験色が今も色濃く残されている神楽である。
 国選択の重要民俗文化財となっている今も、牧山零羊崎神社(まきやまひつじざきじんじゃ)での新年、春季と夏季の例祭での奉納上演を始め、羽黒山鳥屋神社、沼津八幡神社で定例上演を行い、見るものを修験の神秘へといざなってくれている。
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2007/9/7


鼻節神社 Hanabushi-jinja 

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 鼻節神社(はなぶしじんじゃ)はJR多賀城駅から西へ6キロ、七ケ浜半島先端の花渕浜明神崎の小高い丘の上にある神社である。
 周りは鬱蒼とした樹木に囲まれ、静寂の中に佇む神社である。
 第六代孝安天皇が猿田彦命を祭神として建立されたといわれる。
 都からわざわざ神官が出向き建立の儀式を司ったことからも、鼻節神社は朝廷の尊信が非常に大きかったと思われる。
 予明天皇の代には由緒正しき名神社のひとつに数えられていた。また、「枕草子」にも「はなふちの社」と記されていることから、都でも知れわたっていた神社でもあった。
 潮風の吹きつける中、鳥居をくぐり参道をいくと社殿前に海に面した階段がある。その先には鳥居が設けられ、海からも参拝する儀式があったのではないかと伝えられている。
 参道には境内社である山神社、稲荷神社が並んでおり、八海神社や月山神社の石碑もある。
 境内には拝殿に続き神殿があり、そこから海上を見ると、いくつもの奇岩が見える。
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2007/8/29


高鍋城址 Takanabe-jou-shi 

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 高鍋城址(たかなべじょうし)一帯は舞鶴公園として整備され、二の丸表門が公園の正門にあたる。
 元々は財部城(たからべじょう)と呼ばれ、奈良時代に柏木左衛門尉が創築したと伝えられるが定かではなく、斉衡年間(854~56)に宇佐八幡宮の神官であった土持氏が入り、以後室町末期まで六百年にわたり土持氏の居城であった。
 後に高鍋城と改称されるのは、江戸時代の三代藩主秋月種信の頃で、この時大々的に城の拡張と城下町の整備が完成した。
 高鍋城は標高74mの丘陵に築かれ、丘の中腹に本丸、一段下った平地に二の丸、更に下ったところに三の丸を配した縄張りで、丘陵上には三層の櫓が築かれていた。その姿が羽ばたく鶴に似ていることから別名「舞鶴城」とも呼ばれる。
 二の丸跡の石段を上ると、本丸の正門であった長峰門跡を経て本丸跡にでる。政庁と奥御殿があった箇所に本丸政庁跡の標柱が立ち、本丸跡から更に上ると、見事な石垣が部分的に残っている。
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2007/8/13


土呂八幡宮 Toro-hachiman-guu Toro Hachimangu Shrine

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 土呂八幡宮(とろはちまんぐう)は、愛知県岡崎市福岡町南御坊山にある神社である。祭神は、応神天皇、ほか四柱。
 奈良末期~平安初期に京都から下ってきた神官によって創建され、末社、随身門、神宮寺を伴っていたと言われる。
 しかし永禄七(1563)年頃の三河一向一揆の際に焼失し、記録などが失われた。
 その後、徳川家康の命で石川数正によって再建され、焼失した本殿・拝殿は元和五(1619)年、代官・畔柳寿学(くろやなぎじゅがく)が、伊勢の大工・河北次郎兵衛定守に命じて再建されたと言われている。
 社殿は、三間社流造、桧皮葺で古風な形式を残しており、国の重要文化財に指定されている。
 土呂八幡宮は、戦乱の世から崇敬され続ける歴史ある古社である。
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