NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/4/14


からくり人形 Karakuri-ningyou Karakuri Doll

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 からくり人形(からくりにんぎょう)とは、伝統的な機械仕掛けの人形の事である。
 からくりは10世紀頃の中国に見られ、日本に渡ってきたのは室町時代の事といわれている。
 江戸時代に入ってからは、時計などに使われていた歯車などの技術を人形の動作装置として応用し、からくり人形が作られ始めた。
 当初は上流階級の玩具であったが、次第に見世物として人気を呼ぶようになり日本各地に普及した。
 寛文二(1662)年には竹田近江がからくり芝居の興行をしており、享保年間(1716~1735)にはからくり門弥がからくりを駆使した乗り物を作っている。
 幕末には「からくり儀右衛門」こと田中久重が、江戸からくりの最高傑作と言われている「弓曳き童子」を製作した。
 からくり人形は、現代の人型ロボットの原点とも言える、日本の伝統的な精密機械である。
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2008/3/11


東大寺 二月堂 Toudaiji Nigatsudou Todai-ji Temple Nigatsu-do

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 東大寺二月堂(とうだいじにがつどう)は、奈良県奈良市の東大寺境内にあり、同寺法華堂のすぐ北に位置するお堂である。
 その歴史的価値の高さから平成一七(2005)年には国宝に指定されている。
 正式には、東大寺「観音堂」と称し、毎年の旧暦二月に修二会(しゅにえ)という法要が行われることから二月堂の名がついた。
 建立は天平勝宝四(752)年で、修二会も同じ年から始まって、以来、一度も途絶えることなく続けられている。
 寛文七(1667)年に修二会の一行事である「お松明」の火により焼失するも二年後に再建され、現在に至っている。
 本尊は大観音(おおがんのん)と小観音(こがんのん)の二体の十一面観音像で、どちらも何人も見ることを許されない絶対秘仏となっている。
 お堂が放つ、そのどっしりとした落ち着きある佇まいは、同時に千二百有余年の歴史の重みも、見るものに感じさせてくれる。
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2008/1/17


龍野城 Tatsuno-jou 

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 兵庫県たつの市の「龍野城(たつのじょう)」は、明応八(1499)年に西播磨の豪族・赤松村秀によって鶏籠山の山頂に築かれた。政秀、広貞、広秀と四代続いたが、天正五(1577)年に織田信長の命による播州征伐で羽柴秀吉の軍門に降り開城、替わって石川光元や蜂須賀小六正勝(はちすかころくまさかつ)が城番として置かれた。
 一時期、姫路城に入城した池田輝政により支城として整備され、その後も本多、小笠原、岡部、京極と城主が替わっていった。万治元(1658)年に京極高知による讃岐丸亀への移転で廃城となり、一四年間は天領となった。
 寛文一二(1672)年、信州飯田から脇坂安政が五万一千石で入封すると、山麓に平山城として陣屋形式のものが築かれ、泰平の世も手伝い現在に至っている。本丸御殿は昭和五四(1979)年に再建されたものである。
 城下町は「播磨の小京都」と称され、武家屋敷の雰囲気は往事を思わせる。
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2007/12/10


寛永通宝 Kaneitsuuhou 

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 寛永通宝(かんえいつうほう)は、江戸時代を通じて広く流通していた銭貨である。
 徳川幕府は、開府当初から貨幣の統一に着手し、慶長六(1601)年、金貨銀貨の制度を整えた。しかし、銭貨は中世以来の渡来銭がそのまま使われていた。
 寛永一三(1636)年、銅の生産量が増大したことを契機に、幕府は江戸浅草・江戸芝・近江坂本の3箇所に銭座を設け、「寛永通宝」の生産を開始した。
 幕藩体制の確立と共に全国に普及し、創鋳から30年ほど経った寛文年間頃には、永楽通宝をはじめとする渡来銭をほぼ完全に駆逐し、貨幣の純国産化を実現した。
 形状は、円形で中心部に正方形の穴が開けられ、表面には「寛永通寳」の文字が上下右左の順に刻印されており、材質は銅製の他、鉄、精鉄、真鍮製のものがあった。
 寛永通宝は、銭形平次が劇中で投げる事でも知られる、江戸時代を通して最も一般的な銭貨である。
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2007/10/31


一関城 Ichinoseki-jyou Ichinoseki Castle Ruins

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 天正年間(1573〜1591)末期、豊臣秀吉の奥州仕置によって葛西氏が滅んだ後、一関は豊臣家臣の大名・木村氏を経て伊達氏が領有した。
 江戸幕府の開府の後は、慶長九(1604)年に伊達政宗が叔父である留守政景を一関に移し、さらに寛文年間(1661〜1672)には、政宗の10男・宗勝が入ったが、伊達騒動により宗勝は土佐に配流となった。天和二(1682)年、田村建顕が岩沼から移封となり、以後11代続いて明治を迎えた。
 本丸は千畳敷という標高約90メートル、100メートル×50メートルの長方形である。本丸と同一レベルに続く丘陵に空堀が1カ所認められ、本丸以外は適度な落差で階段状に各郭が配されていたと思われる。
 千畳敷北東に虎口があり、南東には若干の高さの方形があって矢倉などの施設が想像され、西には小山があり脇に田村神社が奉られている。
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