NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/9/29


鎌倉 宝戒寺 Kamakura Houkai-ji 

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 花の名所としても有名な宝戒寺(ほうかいじ)は神奈川県鎌倉市に位置する。境内には四季折々に咲く様々な花木が植えられており、特に夏の終わりに境内の風景を白色にそめる白萩が有名なため、萩寺という別名でも呼ばれている。
 建武二(1335)年、北条執権の屋敷があった場所へ、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)によって創建された天台宗の寺院である。
 後醍醐天皇を中心とした勢力によって、鎌倉幕府が滅亡した元弘の乱は、元弘元(1331)年に起きた。幕府とともに北条一族が滅び、その霊を慰めるために天皇が足利尊氏(あしかがたかうじ)に命じて、寺を建立させたといわれる。また、国宝的人材を養成する修行道場としての役割もあったという。
 鎌倉七福神の第三札所になっており、病魔退散・財宝富貴の神である毘沙門天(びしゃもんてん)が祀られている。
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2008/2/7


木牟礼城趾 Kinomure-joushi 

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 木牟礼城趾(きむれじょうし)は鹿児島県出水郡にある城跡である。
 文治二(1186)年近衛家に仕えていた島津忠久が薩摩、大隅、日向三国の地頭職に任ぜられた。忠久は家臣の本田貞親に命じて、山門院、現在の野田町、高尾野などの地区に木牟礼城を築き三州(三国)を監視した。島津忠久自身は居城することはなかったが、本田貞親は城内に竹林城を築き、ここを居住地としていたと伝えられている。
 その後、島津忠久は鎌倉幕府の信頼を厚く受け、この城を中心に島津三州支配の基礎を作ったといわれている。
 しかし、南北朝時代に入ると島津氏の総州家と奥州家両家で勢力争いが起き、木牟礼城を拠点としていた総州家の島津守久は奥州家の久豊に攻められ、城は落城してしまい、木牟礼城もその役割を終えてしまったのである。
 現在は高尾野町江内の国道3号線沿いの台地に忠久を祀る「龍尾神社(若宮神社)」があり、笠懸道、水の手口、西御門等の跡が残り、石碑が建てられている。
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2007/9/25


御火葬塚 Go-kasou-zuka Gokasozuka (Cremation Mound)

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 御火葬塚(ごかそうづか)は、島根県隠岐郡海士町中里にある、後鳥羽上皇を火葬にして埋葬した場所である。
 鎌倉時代の承久三(1221)年に、承久の乱にて鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた後鳥羽上皇は、隠岐に配流されて海士の源福寺で18年を過ごし、延応元(1239)年、六〇歳で失意のうちに他界した。
 後鳥羽上皇の遺体は源福寺の勝田山で荼毘に付され、遺骨は一部京都に持ち帰られ、他は源福寺北部の丘陵であるこの地に埋葬されて廟殿が建てられた。その山稜が、現在の御火葬塚である。
 隣接地には後鳥羽上皇を祭神として祀る隠岐神社が建っており、神社前の歴史民俗資料館には上皇にちなむ品々が陳列され、承久の変の歴史に触れる事が出来る。
 御火葬塚は、鎌倉の昔が偲ばれる史跡である。
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