NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/9/10


大太刀 Ootachi 

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 大太刀(おおたち)とは、3尺(90センチ)~5尺(150センチ)の刃をもつ太刀のことをいうが、この長さの定義は時代により異なり、また、剣術の流派によっても色々な解釈がされており、一定ではない。
 鎌倉時代に入り、日本は武家が支配する社会へと変わっていった。武士の世界において、武人としての誇りは剛気と腕力であった。そのため、武具として長大な大刀が戦場で多く見られるようになっていったのである。その時代の日本人の平均身長が150~165センチであるから、いかに大きな刀であったかが推測できる。
 野太刀(のだち)や馬の足を切り武将を馬から落とすための長刀である斬馬刀(ざんばとう)も大太刀と同じものである。
 大きさからして背中に背負われるものであったが、中には腰に差す剛気な武将もいたという。
 大太刀は実戦で使用される他には、神社に奉納される刀でもあった。
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2008/6/10


松江姉様 Matsue-anesama-ningyou 

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 松江姉様(まつえあねさま)は、島根県松江市に伝わる伝統民芸品である。
 江戸時代、松江藩の御殿女中(ごてんじょちゅう)が作り始めたもので、江戸から伝わった姉様人形の一つといわれる。
 姉様人形とは、江戸時代に普及した和紙と千代紙で造られた優雅な人形で、裕福な武家や商家の子女に大切にされた。
 昭和一〇(1935)年頃までは子供や娘たちの日常の遊び用玩具であったが、今日では郷愁を誘う民芸品となっている。
 普通、姉様人形は顔を略したものが多いのだが、松江の人形はおちょぼ口で目が細く、頬をほんのり赤く染めている。
 衣装は赤と緑の二色であるが、単純化された中にもきらびやかさ、あでやかさがある。
 松江姉様は、小泉八雲(こいずみやくも)も愛好したという、日本的で気品のある三姉妹の紙人形である。
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2008/4/22


もののふ(MONONOFU) mononofu Mononofu

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 サムライではなく、「もののふ(MONONOFU)」。自由で革新的な戦国時代の雰囲気を表現・発信する戦国ブランドである。
 現代アートの推進と伝統工芸の復権。そんな相反するかのように見える2つをさりげなく、しかし大胆に結びつけたのは歴史好きの一サラリーマン。
 国立博物館で変わり兜を見た田中秀樹氏は、これまで知らなかった世界を知り、圧倒されるとともに、その時興味を持っていたインディーズTシャツとのコラボレーションを考えたという。
 変わり兜が戦国武将の美意識であり、自己主張なら、様々なクリエイターが素材やデザインにこだわる現代のTシャツも自己表現の一つ。それならTシャツの中に変わり兜のデザインを取り入れていくことも可能である。また、もし現代に戦国武将たちがよみがえったら、自らの美意識で今の様々な素材やデザインを取り入れていくに違いない、とプロデューサーの田中氏は語る。
 現在、「天下『布』武プロジェクト」を推進中。
[→より詳しい記事を見たい方はこちら]
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2007/12/14


重箱 Jyubako Jubako Lunch Boxes

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 形は四角い物が一般的で、円形や八角形のものもある、二重・三重・四重・五重に積み重ね、食べ物を入れる箱。正式には、四季を表す四段重とされる。今日では、主に正月におせち料理を入れたり、花見や運動会などで弁当を入れる事に使われている。
 起源としては、中国の食籠(じきろう)が、伝わったものと考えられるが、室町時代の文献に、既に重箱の記述を見る事が出来る為、その歴史はかなり古いと考えられる。しかし、庶民に普及したのは江戸時代で、1610年に本格的に重箱が製造されてからである。そして、武家や大名の間では、狩りなどに出掛ける時に使用されていた。また、漆塗りや蒔絵の豪華な物も作られ、伝統工芸品として現在に伝えられている。
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2007/11/12


烏帽子 Eboshi 

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 烏帽子(えぼし)とは、平安時代から近代にかけて被られた、長くて黒い帽子の事である。
 古代の帽子で、平安時代には公家は円筒状の立烏帽子、武家は少し先が折れた折烏帽子を着用した。
 冠から派生していると考えられ、文字どおり烏の羽根のように黒い漆が塗布されている。
 平安時代以降になると、身分の貴賤にかかわらず成人男性が被った帽子を指し、被り物をしていない頭を人前に晒す事は恥辱とされていた。
 当初は布で作られていたが、15世紀頃より紙に漆を馴染ませて強度を持たせた紙製の烏帽子が出現し、江戸期にかけて一般化するとともに、烏帽子の大型化に伴って頭頂を剃り上げる月代(さかやき)が普及し、一般民衆に烏帽子を被らない事が定着していった。
 烏帽子は、中世日本の成人男子にとって、基本となる服飾である。
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2007/10/31


紀州箪笥 Kisyuu-tansu 

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 和歌山県を代表する工芸品「紀州箪笥(きしゅうたんす)」は、全国的に有名な桐箪笥である。
 和歌山県各地の町家からは、古文書や桐箪笥が発見され、当時天保年間の頃からすでに武家以外でも、婚礼調度品として桐箪笥が作られていた記録が残されている。
 加工はすべて手仕事でおこなわれる。挽きや削り、継ぎなど匠たちの経験と勘が独自の道具により素材のよさを引き出している。
 美しい木目で知られる桐箪笥は、軽くて耐湿性に優れた家具で知られている。外気に敏感な性質のため湿気の多い時には水分を吸い、乾燥時には水分を出す恒湿性を持っている。もし火災などの場合、水を吸って燃えにくい事から「身を焼いても中身を救う」といわれている。また桐箪笥は伸縮しにくく狂いが少ない上、軽くて持ち運びが便利な事から、長年使用する収納家具として重宝されている。
 江戸時代に、紀州藩の積極的な振興政策によって桐箪笥の産地となって以来、桐材特有の上品な木肌は現在まで高度な技術や技法が受け継がれており、全国的に高い評価を受けている。
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2007/10/18


小田城 Oda-jyou 

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 小田城は茨城県つくば市、宝鏡山の麓に位置した城である。
 鎌倉時代初期に小田氏の祖である八田知家が築城した。源頼朝の重臣であった知家は常陸守護に任じられ、以降小田氏は関東で勢力を誇った。
 延元四(1339)年、常陸に上陸した北畠親房が小田城で神皇正統記や職原抄を記したことでも知られる。
 茨城県下でも有数の城跡であり、国指定史跡にも指定されている。
 完全な平城であり鐘楼台と涼台が僅かに高い以外は殆どが平地。元々は方形の武家屋敷が増築を繰り返し大きくなったとされる。
 以前は筑波鉄道の線路が引かれていたが現在は廃線となり、遊歩道として整備されている。
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2007/10/12


駿河雛具 Suruga-hinagu Suruga Hina Doll Fittings

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 駿河雛具は、静岡県にて造られるひなまつりの飾り物である。
 針箱、茶道具、箪笥、長持、挟箱など、江戸時代の武家の豪華な嫁入り道具を模したものが雛具である。小さいながら実物と同じ様に作られているのが特徴である。
 16世紀、今川氏が静岡を支配していた頃には、駿河雛具は生産されていた。
 江戸時代になると、久能山東照宮や浅間神社の造営等をきっかけに、全国から集まった職人達が静岡に定着し、高度な技術を応用して雛具作りが発達していった。
 また、木地、漆、蒔絵、金具等の工程を分業化することで、手工芸でありながら大量の製品を作ることができたのも、駿河雛具の大きな特色である。
 駿河雛具は、湿気が多く温暖な気候と、江戸や京都等の大消費地の中間にあるという立地が幸いして発展した、伝統工芸品である。
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