NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/8/4


黄橡(キツルバミ) Kitsurubami 

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 黄橡(きつるばみ)は、日本の伝統色のひとつで、ややくすみを帯びた赤みがかった黄色、やや黒味がかった黄赤色の名前で、木蘭色(もくらんじき)とも呼ばれる。
 橡(つるばみ)は、ブナ科の落葉高木のクヌギの古名で、秋になると大きな団栗(どんぐり)がなる。団栗の名は、橡栗(とちぐり)が転じたものという説もある。その実の傘部分を煮出して、媒染剤に鉄を使用し染色すると青みがかった黒色になり、灰汁を使用すると黄橡色になる。
 庶民の衣服の染料に多く使われたといわれている。
 橡色の衣については古くは万葉集にも詠われており、黄橡色そのものは太古から存在していたと考えられている。
 その落ち着いた色目は、現在も幅広い年齢層に人気であるという。
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2008/7/31


萱草色(カンゾウイロ) Kanzou-iro 

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 萱草(かんぞう)はユリ科の多年草で、すらりとした茎に、ユリに似た八重咲きの橙赤色の花を咲かせる。
 中国で忘憂草と呼ばれていたことから、日本では忘れ草(わすれぐさ)という名づけられ、憂いを忘れたいといった内容の歌が万葉集にある。
 
 忘れ草 
  吾(わ)が紐につく
   時となく
    思ひわたれば
     生けりともなし
 
      *万葉集(巻一二)
 
 平安時代の宮廷では、喪に服している女性が、紅色の袴のかわりに萱草色に染めた袴を着用したことが、源氏物語などにみられる。
 萱草色(かんぞういろ)は、花の名にちなんだ伝統色で、萱草色は花の色のように、やや赤みを帯びた黄色を表すが、染料としては、花はつかわれず、蘇芳(すおう)や梔子(くちなし)の実、山梔子(さんしし)が使われた。
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2008/6/13


海松色(ミルイロ) Miru-iro 

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 海松色(みるいろ)は、日本に古くから伝わる伝統色である。
 浅海の岩の上に生える海草の一種、海松の色に因んだ、暗い黄緑色を言い、この海藻自体は万葉集にも歌いこまれているが、色として現れるのは平安時代になってからである。
 色としてはオリーブ・グリーン系であり、それまでオリーブ系統の色名を持たなかった日本では、貴重なものであった。
 この幽暗でクールな色調は、中世において鎌倉武士や室町文化人に用いられ、江戸時代になり、粋好みから広く愛好されるようになっていった。
 井原西鶴の「日本永代蔵」には、若い頃流行に乗せられ、染め直しが効かない海松茶色に染めてしまった着物を、何十年経っても残念がる男が登場している。それだけ海松茶色は絹にしっかりと染まるといわれている。
 海松色は、渋い印象を与える日本の伝統色である。
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2008/6/2


片男波 Kataonami 

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 江戸の歴史や文化が残る和歌山県南西部の和歌浦(わかのうら)地区。古来より歌人の憧れの景勝地としても有名で、この地を詠んだ歌が数多く万葉集に収められている。
 和歌浦地区東側を流れる和歌川河口に広がる、海水と淡水が混じり合う汽水域が片男波(かたおなみ)と呼ばれる。
 現在は潮干狩りや海水浴の季節には特に大勢の人たちで賑わう片男波だが、ここもまた奈良・平安時代から多くの歌人に愛されてきた、古くからの景勝地である。
 片男波という名前は、山部赤人が詠んだ万葉集「若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして 鶴鳴き渡る」の「潟を無み」に由来しているという説が有力である。万葉の時代の、干潟で餌をついばむ鶴の姿が思い浮かぶ。
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2008/3/5


弥彦神社 yahiko-jinjya yahiko Shrine

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 越後平野の中央にそびえ立つ弥彦山の麓に、弥彦(伊夜比古)神社(やひこ(いやひこ)じんじゃ)はある。越後国の一ノ宮である。
 境内はうっそうとした樹林に覆われ、長い月日を経てきた老杉、古欅が佇んでいる。その創建年代は不詳だが、万葉集にも歌われたほどの古社。
 祭神は天香山命(あめのかごやまのみこと)。神武天皇の命を受け、越後国開拓のため地元の民に、漁労や製塩、稲作や養蚕などの農耕術を教えたという。かつては、伊夜比古さまと呼ばれ、越後の人々の心のふるさと、魂のよりどころとして、古くから栄えてきた。
 日本有数の長い日本刀である志田大太刀(しだのおおたち、重要文化財)や、源義家や源義経らに所以すると伝えられる武具などの文物が、社宝として宝物館に展示されている。
 現在の社殿は、火災のために焼失した後、大正五(1916)年に再建されたものである。
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2007/10/31


奈良 柿本神社 Nara Kakinomoto-jinjya Nara Kakinomoto Shrine

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 奈良の柿本神社は、奈良県葛城市柿本にある神社である。祭神は三十六歌仙の一人、柿本人麻呂で、島根県益田市にある柿本神社本社の摂社にあたる。
 万葉の歌人、柿本人麻呂の生地ともいわれ、各地に散在する人麻呂伝説の一つとなっている。
 石見国で没した人麻呂を宝亀元(770)年に改葬して、社殿を建てたのが始まりという。
 柿本人麻呂は宮廷歌人であり、格調高い作風で万葉集中随一の叙情歌人と言われた。後世、歌聖と称される。
 社殿左側にある墓は江戸時代の造営、また神社隣の影現寺は別寺で、通称柿本寺と呼ばれている。
 本堂には、紀僧正真済作といわれる木造の人麻呂像が安置されているが、非公開とされている。
 奈良の柿本神社は、人麻呂死後数年で創建された、由緒ある神社である。
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2007/10/17


山部神社 Yamabe-jinja Yamabe Shrine

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 「山部神社(やまべじんじゃ)」は奈良時代の万葉歌人、山部赤人(やまべのあかひと)を祭神として祀っている神社として知られている。
 境内には江戸時代の歌人・渡忠秋(わたりただあき)が、赤人の歌「田籠の浦にうち出てみればしろたへの・不二の高嶺にゆきはふりつつ」を刻んだ歌碑が立っている。
 赤人の経歴は詳しくはわかっていないが、残された多くの歌から、広く各地を旅した歌人であるとされ、蒲生町下麻生で生涯を閉じたといわれている。
 境内に入るとまず目に付くのが、立ち木を利用した立派な「勧請吊(かんじょうづり)」であろう。勧請吊はこの地方でよく行われるもので、「除災招福」を願って正月に奉納されるものだという。
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2007/10/15


玉藻公園 Tamamo-kouen Tamamo Park

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 玉藻公園(たまもこうえん)は香川県高松市JR高松駅近辺の高松城、別名・玉藻城跡に昭和三〇(1955)年に作られた公園である。
 高松城は天正時代(1590年頃)豊臣秀吉の家臣である生駒親正(いこまちかまさ)によって築城され、後の江戸時代には、水戸黄門で有名な水戸光國の兄、松平頼重(まつだいらよりしげ)が藩主となり長年に渡り栄華をきわめた城である。
 玉藻城のいわれは、万葉集でも有名な歌人・柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)が讃岐の国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことにちなんで、この地の海が玉藻の浦と呼ばれていたことによるとされる。
 公園内では一年を通じ、春の桜見物、秋の菊花展、お茶会、植木市などのイベントが数多く開かれる。
 また、大正六(1917)年、城跡に建てられた高松市立玉藻公園披雲閣は歴史と由緒ある建物であり、現在は会議、茶会、華店などが開かる。
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