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2008/7/28


小田部庄右衛門 (御鋳物師) Kotabe Shouemon (On-Imonoshi) Shouemon Kotabe (Metal Worker)

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 小田部庄右衛門。昭和46(1971)年、茨城県生れ。
 御鋳物師(おんいものし)として八〇〇年以上の伝統を守り続ける。小田部家三七代。
 父である先代の元、子供の頃より梵鐘作りを手伝う。国立高岡短期大学(現富山大学)金属工学科卒業後、盛岡の鉄瓶工房で修行。その後、小田部鋳造に戻り、25歳で御鋳物師を継ぐ。
 筑波山の麓にある工場では梵鐘、半鐘、天水鉢の鋳造を行っており、全国から注文の他に、外国からのベルの製作依頼もある。
 文字と模様を相談し、地元の砂と粘土で鋳型を作り1200度の銅と錫を流し込む。小田部鋳造では鐘に着色しないので、鋳型にとても手間をかける。一つの梵鐘を作るのには、4ヶ月~半年、さらには一年かかることもある。鋳型から取り出された鐘はオレンジがかった赤銅色をしており、しだいに赤、紫、青緑を帯びてゆく。時とともにその土地の空気が色を変化させるのだ。
 イメージの先にある梵鐘の響き。心を震わせる音を求めて小田部さんは試行錯誤を続けている。
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2008/6/10


銅蟲 Doucyuu 

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 銅蟲(どうちゅう)とは、銅の表面に独特の鎚目(つちめ)と赤銅色を出すことに特徴を持つ銅製品で、広島県指定の伝統工芸品である。
 江戸時代初期、広島藩主・浅野長晟(あさのながあきら)がお抱の銅細工職人に創案させた技法といわれており、その職人の仕事振りに痛く感心した浅野公が「銅の蟲(むし)のようだ」といったことから、その名が付けられたとされている。
 その製法は、まず特殊な銅の合金板を焼き鈍して成型加工した上で、表面を金づちで叩いて槌目の模様を入れる。その後に稲藁で一品一品を燻すことで、他に類を見ない独特の深みと重厚感を持った赤銅色が浮かび上がってくる。
 表面は乾拭きすることで、年月と共に光沢や渋味が増し、漆黒の表目に浮かぶ赤銅色の独特の風合は、よりいっそう、その魅力を解き放つ。
 茶人や趣味人にも愛されたそれらの逸品は、主人の傍らで同じ年月を過ごしながら、日々、その輝きを増していく。
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2008/1/17


小杉焼 Kosugi-yaki 

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 小杉焼(こすぎやき)は富山県射水市で焼かれる陶器。以前は射水郡小杉町という地名だったことから、それにちなんで名付けられた。
 江戸時代後期に地元の陶工、高畑与左衛門が開窯した。与左衛門は相馬をはじめ、瀬戸、美濃、京都など各地の窯元を訪ねては研鑽を積み、帰郷して陶窯を開くと、酒器、茶器、花器、祭器などあらゆる生活雑器を焼いた。
 中でも、銅や鉄の釉薬(ゆうやく)を用いて滑らかな艶を持つ、瓢徳利(ひさごとっくり)や鴨徳利が特に知られている。また、青磁(せいじ)も多く焼かれ、その質の良さから「小杉青磁」と呼ばれ、高く評価された。
 しかし、明治時代後期に衰退して廃窯。昭和時代に二回、再興が試みられるも、第二次世界大戦の勃発で復活には至らなかった。その後、昭和四五(1970)年に池上栄一氏が再興に成功。「小杉焼栄一窯」と命名し、伝統の中にも現代風のデザインを採り入れた作品を焼き続けている。「これまでの小杉焼にない新しい色を出したい」と、氏は情熱を燃やす。
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2007/12/10


寛永通宝 Kaneitsuuhou 

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 寛永通宝(かんえいつうほう)は、江戸時代を通じて広く流通していた銭貨である。
 徳川幕府は、開府当初から貨幣の統一に着手し、慶長六(1601)年、金貨銀貨の制度を整えた。しかし、銭貨は中世以来の渡来銭がそのまま使われていた。
 寛永一三(1636)年、銅の生産量が増大したことを契機に、幕府は江戸浅草・江戸芝・近江坂本の3箇所に銭座を設け、「寛永通宝」の生産を開始した。
 幕藩体制の確立と共に全国に普及し、創鋳から30年ほど経った寛文年間頃には、永楽通宝をはじめとする渡来銭をほぼ完全に駆逐し、貨幣の純国産化を実現した。
 形状は、円形で中心部に正方形の穴が開けられ、表面には「寛永通寳」の文字が上下右左の順に刻印されており、材質は銅製の他、鉄、精鉄、真鍮製のものがあった。
 寛永通宝は、銭形平次が劇中で投げる事でも知られる、江戸時代を通して最も一般的な銭貨である。
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2007/12/4


辰砂釉 Shinshayuu 

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 透明な基礎釉に少量の銅分を入れ、還元焼成をすると血の赤色をした「辰砂釉(しんしゃゆう)」が出来上がる。
 「辰砂」とは硫化水銀の俗称で、朱色をしているため、その色になぞらえて紅色をしたものを辰砂と呼ぶ。
 酸化炎焼成によって緑色に発色し、還元炎焼成によって赤く発色する銅の性質を利用したもので、透明釉の中に、色彩を表す呈色剤として銅を含ませて、赤い釉薬として用いたものをいう。釉薬中の銅が赤く発色し、作品によっては渋い柿色となって表現されるものもある。また釉薬のノリによって黒い斑点が出て、趣のある柄がうまれる。
 辰砂釉には、血のように赤い牛血紅(ぎゅうけつこう)、その赤色に青紫の炎のような模様の掛かった火焔青(かえんせい)、ピンクまたは斑点のある鈍い赤色の桃花片(とうかへん)の3種類がある。
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2007/11/9


七宝焼き Shippou-yaki 

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 七宝焼き(しっぽうやき)とは、日本伝統の工芸技法である。
 陶磁器のように土を焼くのではなく、土台に金、銀、銅などの金属を用いてその表面にガラス質の釉薬(ゆうやく)を施し、短時間で焼成する。
 七宝焼きは中近東で生まれ、シルクロードを通って中国から日本に伝わったとされている。
 かつては刀装具や釘隠し、襖の引き手などの装飾に使われていた。しかしその技術は各家の秘伝であり、万人に広まることはなかった。
 京都の平田道仁(ひらたどうじん)が、江戸時代初期に朝鮮半島の工人に七宝焼きの技術を学んだと言われている。また、江戸時代後期には尾張の地で梶常吉が独力で七宝焼きの技法を解明し、「近代七宝」が始まったとされる。
 七宝焼きは、金・銀・瑠璃・しゃこ・めのう・赤珠の七種の宝石の美しさを表現したと言われる伝統的な工芸品である。
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2007/10/31


燕鎚起銅器 Tsubametsuikidouki 

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 燕鎚起銅器(つばめついきどうき)は、新潟県燕市の伝承技術として知られ、金・銀・銅・錫などの素材を鎚(つち)で打ち起こす金属工芸品である。
 江戸時代中期、地元の弥彦山から銅が産出されていた。そこへ仙台から職人がやってきて製造技術を伝えたといわれ、やかん類が生産されていた。これが現在の燕市が鎚起銅器を中心とした、スプーンやフォークなどの食器類、日用品が特産となったはじまりである。
 鎚起銅器は、一枚の銅板から大小さまざまな鎚や鏨(たがね)を用いて形成し、銅器を熱したあとゆっくり冷やす焼鈍(しょうどん)という方法を繰り返し、打ち延ばし・打ち縮めという鍛金の技術を駆使して作品を仕上げていく。
 さらに、表面には彫金で装飾を施し、打出・片方を斜めに彫って線を描く片切彫(かたきりぼり)・彫り上げたくぼみに金・銀・貝など他の材料をはめ込む象嵌(ぞうがん)などの技術が用いられる。
 燕鎚起銅器は、殺菌作用があり熱伝導率が高く、丈夫であるため長年愛用できる逸品である。
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2007/6/25


港文館 Koubun-kan 

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 北海道釧路市の港に流れ込む釧路川河口を望む場所に、港文館が建っている。
 元々はかの石川啄木も短期間ではあったが、新聞記者として勤めていた釧路新聞社として明治四一(1908)年に建てられた、当時としては道東唯一のレンガ作りの洋風建築だった。昭和十七(1942)年以降は北海道新聞釧路支社として使用され、取り壊されることとなる。
 その後、平成五(1993)年に一階は港湾資料、二階は郷土資料の展示スペースとして、港文館の名で復元されることとなった。
 釧路の歴史や港湾史などをつぶさに見学できるのだが、郷土資料においてはそのほとんどが啄木のもので占められている。釧路での滞在はわずか76日だった啄木だが、後世に残した影響は色濃い。敷地内には啄木の銅像も建立されている。
 一階の喫茶スペースで、夕陽にまどろむ啄木像を眺めつつコーヒーを味わう。ほんの少し、自分も詩人になった気分に浸れるかもしれない。
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