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2008/3/5


丸岡城 Maruoka-jyo Maruoka Castle

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 現存する日本最古の天守閣を誇る丸岡城。古風な野面積みの石垣の上に立つその天守は、小さいながらも素朴な姿を今に伝えている。その築城は天正四(1576)年。
 戦国時代、北陸地方を収めた織田信長は、働きに対する恩賞として、柴田勝家に越前の国を与え、豊原に築城を命じた。後に交通の利便性などから、その甥勝豊が丸岡に移築した。
 ニ層三階建の特異な建築法で、上層に廻縁をぐるりと巡らした望楼を乗せている。屋根の笏谷石製の瓦、太い出格子、黒い板壁など、初期の天守閣に顕著な特徴を持っている。
 丸岡城は、血が血を洗う戦乱期をくぐり抜けてきた。伝説によると、戦がある度に大蛇が現れ、霞を吹いて城を隠したことから、別名「霞ヶ城」とも呼ばれている。
 昭和九(1934)年、国宝に認定されたが福井大震災により倒壊。後に修復され、重要文化財となった。
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2007/10/24


青陰城 Aokage-jyou Aokage Castle

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 青陰城は、広島県尾道市因島田熊町にあった山城である。
 南北朝時代、北朝の小早川氏と南朝の河野氏が因島で激突したとき、北朝方である小早川氏に対抗する伊予衆が、東にある堂崎山城の防御の一環として築いたのではないかと言われている。
 村上水軍の地であった瀬戸内海に浮ぶ因島には、たくさんの中世の城跡があるが、この青陰城は、因島の中西部、標高277mの青影山の山頂にあり、因島村上水軍の本城となった。築城は村上三郎左衛門義弘と伝えられる。
 以後、270年間、因島村上氏によって支配されたが、関ヶ原の合戦の後、慶長五(1600)年頃に廃城となった。
 現在、平坦な本丸跡や館跡、石垣の一部などが残っている。また、青影山の北方にある金連寺は、因島村上氏の菩提寺で歴代の墓塔が残されている。
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三原城 Mihara-jyou Mihara Castle Ruins

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 三原城は、現在の広島県三原市にあった城である。国指定史跡となっている。
 三原城は、天正8(1580)年、小早川隆景によって沼田川河口付近にあった中州に建てられた城である。
 その姿が、まるで海に浮いているように見えたため「浮城」或いは「海城」と呼ばれたという。
 東は湧原川から西は現在の臥龍橋付近まで約900メートル、南北に約700メートルの広さがあった。
 隆景の死後、関ヶ原の合戦を経て紀伊和歌山藩筆頭家老の浅野忠吉が入城し、広島藩の支城として幕末まで使用された。
 明治4(1871)年、廃藩置県により廃城となる。
 現在は、石垣とお堀が残り、周辺は公園として整備されている。
 三原城は、秀吉や家康も宿泊したという要害であり、素晴らしい景観を誇った城である。
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2007/10/12


沼田城跡 Numata-jyou-ato Numata Castle Ruins

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 群馬県沼田市に所在。戦国時代の天文元(1532)年、この地方の有力者、沼田十二代の万鬼斎顕泰(ばんきさいあきやす)が築城したと言われる。当時は倉内城と呼ばれた。
 関東へ至る要衝の地であることから、越後の上杉氏や小田原の北条氏、甲斐の武田氏などの戦国大名により目まぐるしい争奪戦が繰り広げられた。
 江戸時代に入ると真田氏の所領となり、慶長二(1597)年から数年かけて、真田信幸により五重の天守閣を建造、二の丸、三の丸などが整備され、近世城郭に改修されたという。
 関東では珍しく石垣が築かれていた沼田城。現在残っている遺構はあまりないが、わずかに残る石垣や堀が当時の面影をしのばせる。春には樹齢400年の古木「御殿桜」が咲き、沼田城の興亡の歴史を静かに語りかけてくるようだ。
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2007/10/2


行基 Gyouki Gyoki

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 行基(ぎょうき)は奈良時代の僧。古代民間仏教のカリスマで、その偉業により行基菩薩と尊称された。
 天智天皇七(668)年、河内国(現・大阪府)に誕生。法興寺の道昭を師として、一五歳で出家。仏教教理の他に、土木技術を学んだ。
 「教団は王権から独立すべきである」という三階教の教えを根本思想に、伝道と社会事業を融合させ、民衆を煽動した。畿内を中心に諸国を巡り、造寺、墾田開発、橋梁架設などを押し進めた。
 驚異的な指導力が朝廷に危惧され、僧尼令違反で禁圧されたが、大仏造営の勧進役を買って出ると、逆に朝廷より大僧正位を授けられた。
 大仏造営中の天平二一(749)年、奈良・菅原寺で八一歳で入滅。『日本霊異記』『本朝法華験記』『日本往生極楽記』に数々の伝説が残る。行基の軌跡を記した「行基図」が、日本地図の原型という説もある。
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2007/9/6


石井閘門 Ishii-koumon Ishii Locks

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 石井閘門(いしいこうもん)は、宮城県石巻市水押にある建造物である。国の重要文化財に指定されている。
 閘門とは、水位差のある川や運河などで船舶を通すために設ける水位調節機能を持つ施設で、2つの水門の間に船舶を入れる閘室を持っている。
 石井閘門は、北上運河の起点に水位調節のため建造された煉瓦閘門である。
 内務郷大久保利通の命を受け、内務省雇長工師のオランダ人ファン・ドールンが計画し、明治一三(1880)年、竣工した。
 明治政府が東北開発の拠点として建設を進めた野蒜(のびる)築港事業の代表的遺構であり、日本における近代閘門のさきがけである。
 石井閘門は、明治から大正にかけて全国に建造された近代閘門の規範を示すものとして、土木技術史上価値が高い建築物である。
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2007/6/7


南部藩陣屋跡 Nanbuhan-jinya-ato The Old Jinya of the Nanbu Domain

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 南部藩陣屋跡(なんぶはんじんやあと)は、北海道函館市汐首町にある史跡である。
 寛政一一(1799)年、箱館の警備を命じられた南部藩の陣屋として建設された。
 文政四(1821)年、松前氏の復領後に1度廃止されたが、安政二(1855)年には、箱館市内の弁天岬等の警備を命じられた南部藩は、陣屋を再築。
 しかし明治元(1868)年、南部藩は旧幕府軍襲来の噂と政情不安から蝦夷地警備兵を撤退、陣屋は廃止され、火を放たれた。
 敷地は、当初16200平方mほどであったが、後に36000平方m以上まで拡大した。
 現在は、昭和二九(1954)年に岩手県南部会によって建てられた碑と石垣が残るのみとなっている。
 南部藩陣屋跡は、モロラン・長万部・砂原にも分屯された元陣屋であり、貴重な史跡である。
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2007/5/31


霞城公園 Kajyou-kouen Kaijo Park

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 城下町である、山形県山形市にある「山形城」跡地にある公園。
 近年になり、城の復元に力を入れている。「山形市制100周年」には「大手門」が復元され、年に2回公開され、人気となっている。
 1356年に斯波兼頼が楯を築いたのが、最山形城の最初といわれる。その後、子孫の最上義光が1592年から約13年をかけ、改築を手がけ、現在の山形城の原型を作った。
 57万石の領地を持つようになった後、12人の城主が入部した。
 当時の建造物としては、石垣や堀が残っており、その面影を残す。
 また済生館と呼ばれる、城跡とは趣の違う洋風の建物などがある。
 現在は「桜の名所」としても知られシーズンには花見客などで賑わい、人々に親しまれている公園である。
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