NIPPON Kichi - 日本吉

記事数4件: 1~4 件表示          

2007/10/22


日牟禮八幡宮 Himure-hachiman-guu Himure Hachimangu Shrine

Jp En

 滋賀県近江八幡市宮内町にある由緒ある神社。
 第一三代成務天皇が高穴穂宮で即位した時に、武内宿禰(たけうちのすくね)に命じて造らせたと伝えられている。 
 日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)の名は、第一五代応神天皇が近江に出向かれた際、ここに御座所が設けられ、この場所から日輪の輪が二つ見えるとのことから、後に祠を建て「日群之社八幡宮(ひむれのやしろはちまんぐう)」と名付けられた。その後、持統天皇の時に藤原不比等が参拝し、詠んだ和歌に因んで比牟礼社と改められた。また、日牟礼とは、古代豪族の和珥氏(わにうじ)の祖である日觸使主の日觸(ひむれ)の転とする説がある。
 日牟禮八幡宮は、武神として崇敬され、蒙古襲来時の朝廷からの奉幣や、足利氏、徳川氏をはじめ戦国時代の名だたる武将たちも参拝し、関が原の戦の後には、家康も参詣している。
 昭和四一(1966)年日牟礼八幡宮と改称。
 神庫には数多くの重要文化財が保管されている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/1/25


筥崎宮 Hakozaki-guu Hakozaki Temple

Jp En

 筥崎宮(はこざきぐう)は、福岡県福岡市東区にある神社である。日本三大八幡宮、日本三大楼門のひとつ。式内社(名神大)で、旧社格は官幣大社。
 筥崎宮(筥崎八幡宮)の祭神は応神天皇(主祭神)、神功皇后、玉依姫命(神武天皇の母)である。創建の時期は、平安時代の延喜二十一(921)年、醍醐天皇が神勅により、この地に壮麗な社殿を建立し、延長元(923)年、筑前大分宮より遷座したとされる。
 鎌倉中期、蒙古襲来(元寇)のおり、俗に言われる「神風」が吹き未曾有の困難に打ち勝ったことから、厄除・勝運・海上交通・海外防護の神としても崇められている。
 筥崎宮は、玉取祭や放生会大祭などの楽しい祭で四季を彩る杜として、今でも広く親しまれている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/1/23


元寇防塁跡 Genkoubourui-ato Bulwarks against Mongol Invasion

Jp En

 元寇防塁跡は、福岡市内に残る元寇に対抗した防塁跡で、市内には7ケ所あり、いずれも国の史跡に指定されている。
 1274年、元(蒙古)が900隻の軍船と28.000の兵で博多を攻撃し、九州の御家人と戦いをくりひろげた(文永の役)。
 鎌倉幕府は再度の来襲に備え、半年をかけて、高さ2m、幅2.5m、西は今津から東は香椎まで、博多湾の海岸を20kmに渡り防塁を築くことを、九州の御家人に命じた。
 1281年に元は再び博多を攻めたが、この防塁に阻まれ、また台風(神風)の襲来などによりあえなく全滅した(弘安の役)。
 元寇防塁跡は、当時を偲ばせる歴史的史跡であり、武士の偉業を称えるものである。
 昭和6(1931)年、国の史跡に指定された。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2006/12/15


尾崎人形 Ozaki-ningyo Ozaki Dolls

Jp En

 尾崎人形は、佐賀県神埼町尾崎西分地区に伝わる焼物の人形で、佐賀県内陶磁器の中でも最も歴史が古い。素朴な土の温もり、ユーモラスな人形の表情、鮮やかな色付けが印象的だ。
 尾崎人形は、弘安4年(1281年)、元冦の折に囚われの身となった蒙古人たちが人形を作って吹き鳴らし、遠い祖国を偲んだのが始まり。そして技術は地元民に伝わり、焼物が盛んになったという。
 地元で採取した土を原料に型をとり、笛物は穴を開けた後に2週間乾燥させる。手作りした窯で焼きあげ、ベースの白色を塗った後、岩絵具で鮮やかな色を付けていく。鮮やかな着色の赤青黄の赤は蒙古人の血の色、青は平和、黄は自然を意味するという。
 尾崎人形には鳩笛や、子守人形、ふくら雀など全部で20種類程あるが、中でも鳩笛は「テテップー」と呼ばれて土産物として人気だ。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



記事数4件: 1~4 件表示          
NIPPON Kichi - 日本吉 - 日本語に切り替える NIPPON Kichi - 日本吉 - to english

モノ・コト・ミル・ヒトで綴る
日本の美意識。

現在の記事 5444
カテゴリーズ
都道府県
キーワードシャッフル
お気に入り
キーワード検索
閲覧履歴



Linkclub NewsLetter