安祥城址 Anshou-jo-shi
|
安祥城(あんしょうじょう)は、永亨一二(1440)年、畠山一族の和田親平が築城したといわれている。
この地域は三方向が沼という自然の要塞で守られており、城のまわりに二重の濠がめぐり、高い土塁と見張り櫓から低地を監視できる、外部からの攻めに強い城だった。
しかし徳川家康の祖先である松平氏が、城の近くの集落で賑やかな盆踊りを開催して武士の注意を引き付け、その間に攻め取るという寄策を投じ落城する。
のちに松平氏は本拠を移し、一族の安祥長家を安祥城代とするが、天文九(1540)年、尾張の織田信秀が落城させ、支配下に置く。
永禄五(1562)年に清洲同盟(きよすどうめい)が成立すると、安祥城は廃城となった。
現在は大乗寺に本丸跡、八幡社に二の丸跡、周囲に堀や土塁が残っており、本の丸を中心に円心状に曲輪を配置した城跡を残している。また、七つ井と呼ばれる井戸が点在し、安祥城主が茶の湯に使ったとされる筒井が残っている。
この地域は三方向が沼という自然の要塞で守られており、城のまわりに二重の濠がめぐり、高い土塁と見張り櫓から低地を監視できる、外部からの攻めに強い城だった。
しかし徳川家康の祖先である松平氏が、城の近くの集落で賑やかな盆踊りを開催して武士の注意を引き付け、その間に攻め取るという寄策を投じ落城する。
のちに松平氏は本拠を移し、一族の安祥長家を安祥城代とするが、天文九(1540)年、尾張の織田信秀が落城させ、支配下に置く。
永禄五(1562)年に清洲同盟(きよすどうめい)が成立すると、安祥城は廃城となった。
現在は大乗寺に本丸跡、八幡社に二の丸跡、周囲に堀や土塁が残っており、本の丸を中心に円心状に曲輪を配置した城跡を残している。また、七つ井と呼ばれる井戸が点在し、安祥城主が茶の湯に使ったとされる筒井が残っている。
- 住所
- 446-0026 愛知県安城市安城町城堀30
- 名前
- 安祥城址
- 電話
- 0566-77-6655