NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/7/30


鵜祭 U-matsuri 

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 鵜祭(うまつり)は、石川県羽咋市(はくいし)にある気多大社(けたたいしゃ)にて一二月一六日に行われる神事である。
 厳冬の深夜に鵜をもってして吉凶を占うという珍しい祭りで、平成一二(2000)年二月に国重要無形民俗文化材の指定を受けた。
 毎年一二月一〇日頃、七尾市鵜浦町の鹿渡島で鵜を一羽だけ生け捕りにする。この瞬間から鵜は神として崇められ「鵜様」と呼ばれる。葦で編まれた籠に丁重に納められた鵜様は、三人の鵜捕部(うとりべ)に交代で背負われ、気多大社まで約四〇キロメートルの距離を運ばれる。一行は、路上に出て賽銭をおとし手を合わせる人々に見送られながら、一歩一歩を踏みしめつつ、ゆっくりと大社を目指す。実に三日間の旅路である。
 一二月一六日の午前三時、いよいよ神社で神事が営まれる。二本のロウソクの灯りだけで神職と鵜捕部の問答がおこなわれた後、鵜を神前に向けて放つ。この鵜の跳躍によって翌年の吉凶が占われるという。大役を終えた選ばれし鵜は、その後一ノ宮海岸へ運ばれて、闇の空へと放たれる。 
 
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2007/10/17


京すだれ Kyou-sudare Kyosudare

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 京すだれ(きょうすだれ)は、高級品として知られる、京都府にて作られるすだれである。
 御簾(みす)は平安時代の宮廷の調度品として欠かせぬものであったが、町家では贅沢であるとして御簾の使用が禁じられたため、縁のない竹すだれが用いられた。
 すだれは神社仏閣・料亭など、伝統や格式を重んじる場所の多い京都ならではの工芸品として受け継がれてきたが、明治以降は角ひごが丸ひごとなり、四方に縁のついた座敷すだれが京すだれとして全国に広まった。
 現在も手づくりのすだれのほとんどが京都で生産されており、原料は琵琶湖東岸の物が最高とされ、間仕切りや日除けとしての実用性と趣のあるデザインが人気を集め、欧米などへも輸出されている。
 京すだれは、涼やかで雅な日本の伝統的調度品である。
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2007/9/11


追波川 Oppa-gawa 

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 岩手県の御堂の湧水「弓弭(ゆはず)の泉」を源流とし、岩手県のほぼ中央を北から南に流れて宮城県に入り、そして石巻湾へと流れ出る東北随一の大河、北上川。
 その北上川の河口付近にかかり、河北町から東流、やがては南三陸の追波湾へと注ぐ延長17.5kmの流れが、追波川(おっぱがわ)である。
 明治四四(1911)年から昭和九(1934)年にかけて行われた、放水路建設工事によって誕生した流れであり、区別してそれまでの北上川を旧北上川、追波川を新北上川とも呼ぶ。
 現在では、以前からあった石巻湾への流れを旧北上川といい、この追波川を含む追波湾への流れを北上川と称している。
 春になればサクラマスを求める太公望で賑わいを見せ、秋になれば日本の川では最大級といわれる葦(ヨシ)原で、「残したい日本の音風景百選」にも選ばれた、葦の葉ずれが奏でるシンフォニーに耳を傾けることもできる。
 川は豊かな自然を満面に湛えて、今もゆったりと、東北の地を流れている。
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2007/8/29


二上神社 Futagami-jinja 

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 二上山(ふたがみやま)は標高1082メートルある天孫降臨(てんそうこうりん)ゆかりの山として知られ、つつじの名所でもある。この山の高千穂町と五ヶ瀬町の境界付近にあるのが二上神社(ふたがみじんじゃ)である。
 天孫降臨とは、天照大神(あまてらすおおみかみ)の命令により、孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、「葦原の中つ国(天の高天原(たかまがはら)と、地の黄泉の国(よみのくに)の中間にある地上の世界)」を治めるために高天原から地上に降り立ったことをいう。
 昌泰元(898)年に現在地に社殿が建立され、永正八(1511)年に三田井右京大夫右武が再建、文化一一(1814)年炎上したためまた再建された。
 伊耶那岐命(いざなぎのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)を祀る。上代では山頂に祀られていたのが、昌泰年間(898~900年)に高千穂町押方に東宮、五ヶ瀬町三ケ所に西宮が建立され、それぞれ二上神社、三ヶ所神社(さんがしょじんじゃ)となっている。
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2007/6/29


チセ Chise Chise

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 チセとは、アイヌ語で「家」に相当する言葉で、アイヌの人々の集落であるコタンに見られた、人々が日常暮らす家の事である。
 住む地域や環境によって素材が変わり、笹・草・萱・葦・樹皮などを壁や屋根に使用し、葡萄の蔓や樹皮などで固定していた。
 外観は寄せ棟造りで、支柱などは栗・桂・イヌエンジュなどを使用し、土台を置かずに地面に直接埋められる。
 チセには、入口から一番奥の、儀式等に使われる神窓、右側の奥の採光用窓、一番手前の炊事等に使用する窓、の3つの窓がある。
 建てられる際に向きが決められていて、チセの中心から神窓が東に向いていたり、西に向いていたりした。そのため、コタン単位でチセの建っている向きは同じ方向となっている。
 チセは居住性が高く暖かい、小さなもので10坪、大きなものは30坪ほどのアイヌの家である。
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2007/6/27


砂原岳 Sawara-dake 

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 砂原岳(さわらだけ)は、北海道茅部郡森町砂原にある駒ケ岳を構成する標高1113mの1ピークである。
 山名は山麓の地名・砂原からで、砂原の意味は、アイヌ語で広い砂州という意味のシャラから、葦の・群生地という意味のサラキ・ウシから、砂地なので日本語の砂原からなど、諸説があって判然としない。
 駒ケ岳の稜線部には標高892mの隅田盛、標高1131mの剣ケ峰と砂原岳の3つのピークがあり、このうち、砂原岳はゴリラ岩と呼ばれている。
 特に、剣ケ峰と砂原岳のツインタワーは勇壮華麗で、地元の人は双子山とも呼んでいる。
 登山口のある望洋の森公園は、標高200~300mにあり、森林とのふれあいが楽しめるいくつかの散策路が整備されている。
 砂原岳は、その山容から「渡島富士」と呼ばれる雄山である。
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2007/3/2


和歌浦天満宮 Wakaura-tenman-guu 

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 和歌山県の県北を東から西へ流れ下る紀ノ川の河口には平野がひらけ、その平野部の南端の和歌浦湾に望む小高い天神山の中腹に、和歌浦天満宮は鎮座する。
 その昔、紀ノ川はこの和歌浦湾に注いでおり、神亀元(七二四)年、奈良の都を出発した聖武天皇の一行は紀ノ川を下り、この和歌浦湾に御幸された。その頃の和歌浦には島々が玉をつらねるように点在し、潮の満ち干きによって変化する、千潟の風景や、葦原と群れ遊ぶ水鳥、水面に写る陽の輝きなど、感動的な景色であったと思われる。
 今、和歌浦は時代とともに大きく変わりつつあり、聖武天皇の眺めた和歌の浦の風景そのままとはいえないが、天満宮楼門から見る和歌浦の風景には遠い昔を彷彿させるものがある。
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2007/1/12


江戸簾 Edosudare Edo Sudare Blinds

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 江戸簾(すだれ)は、竹などの天然素材を生かしたところが特色の伝統工芸品である。
 簾は平安時代、宮廷で用いられていたことが「枕草子」から知られている。主な技術は江戸時代前期に確立したと言われ、専門の御簾師もいたという。
 浮世絵の代表的絵師、喜多川歌麿(1753〜1806)の作品である「百科園涼み」「簾ごし美人図」「風俗三段娘」などにもしばしば登場しており、江戸時代には日常的に使用されていた。
 江戸簾の特色は、竹、萩、御業、蒲、よし、などの天然素材の味わいをそのまま生かしているところにある。最も多く利用されている竹は、肉質が固くしまっていて色艶が良い秋の彼岸から春の彼岸までの間に採取する。
 江戸簾は、現代でも粋な室内装飾品として活用されており、夏の風情を彩る工芸品である。
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