勝龍寺城 Shouryuuji-jou
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京都府の「勝龍寺城(しょうりゅうじじょう)」は、延元四(1339)年に足利尊氏に属していた細川頼春が北朝方の前線基地として築いた。これは京都盆地の南西部に位置する為である。
応仁元(1467)年の応仁・文明の乱では、細川勝元を総大将とする東軍に対抗する為に畠山義就が城主となった。戦国時代になると岩成友通が城主になるが、永禄一一(1568)年に織田信長が上洛の際、柴田勝家の軍勢に攻撃され落城。その後、信長から勝龍寺城を与えられた細川藤孝(幽斎)は城の大修築を行なったという。
この勝龍寺城は、幽斎の子である忠興と明智光秀の三女・玉(珠)が祝言をあげた場所と伝えられている。明智玉は、後にキリシタンとなり、ガラシャという洗礼名のもと、最後までその信念を貫き通したことで知られる。
天正一〇(1582)年、山崎の合戦で落城、その後に廃城となってしまう。
現在は本丸などが復元され、「勝龍寺公園」として整備され、人々に広く親しまれている。
応仁元(1467)年の応仁・文明の乱では、細川勝元を総大将とする東軍に対抗する為に畠山義就が城主となった。戦国時代になると岩成友通が城主になるが、永禄一一(1568)年に織田信長が上洛の際、柴田勝家の軍勢に攻撃され落城。その後、信長から勝龍寺城を与えられた細川藤孝(幽斎)は城の大修築を行なったという。
この勝龍寺城は、幽斎の子である忠興と明智光秀の三女・玉(珠)が祝言をあげた場所と伝えられている。明智玉は、後にキリシタンとなり、ガラシャという洗礼名のもと、最後までその信念を貫き通したことで知られる。
天正一〇(1582)年、山崎の合戦で落城、その後に廃城となってしまう。
現在は本丸などが復元され、「勝龍寺公園」として整備され、人々に広く親しまれている。
- 住所
- 617-0836 京都府長岡京市勝龍寺町
- 名前
- 勝龍寺城