NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/11/12


調べ緒 Shirabe-o Shirabeo

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 調べ緒(しらべお)は、調べとも呼ばれる、小鼓・大鼓・太鼓などで使用される紐のことである。
 二つの鼓面をつなぐ役割だけではなく、鼓の奏者は、演奏中にも胴と皮を結ぶ調べ緒をきつくしたり緩めたりすることによって楽器の音の調律をするため、出来具合で鼓の響きが決まってしまう。
 古くからあるものだが、専門の調べ司(しらべし)が生まれる明治一〇(1877)年ごろまでは、楽師などがあり合せの丈夫な繊維で調律をしていた。
 調べ緒は、日本麻2本をより合わせた後、25もの細かい手順によって作られる。奏者が握っても伸びずに元にもどるコシと、長い時間使っていても手の皮を痛めない柔らかさが同時に求められ、製作には技術と経験が必要とされる。
 調べ緒は、鼓が使用される能楽、歌舞伎、長唄、民謡などで大変重要な部品となる伝統的な紐である。
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2007/8/9


三河万歳 Mikawa-manzai 

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 新年を祝う歌舞として、愛知県に伝わる伝統芸能。万歳は新春の祝福芸とされ、現在の「漫才」の元祖となる。中啓(扇の一種)を持った太夫(たゆう)と鼓を打つ才蔵(さいぞう)のコンビが祝文を掛け合いながら舞う姿は、人々の笑いを誘いながら福をもたらすと考えられていた。
 万歳の起源をたどると、およそ700年以上の歴史があると伝えられている。江戸時代には三河出身の徳川家によって優遇され、太夫は武士の特権である帯刀、大紋の着用が許可され、才蔵も素襖を着用し、頭に侍烏帽子を着けることが許された。大名屋敷での万歳や江戸城の元旦の開門の儀式を司るなどして全盛期を迎えたが、戦時下は巡業が困難となり、時代の変化とともに衰退した。
 現在は、西尾市、安城市、幸田町において保存会が結成され、1975年に愛知県の無形民俗文化財に指定されている。
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2007/3/12


吉野水分神社 Yoshino-mikumari-jinjya Yoshino Mikumari Shrine

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 吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)は、奈良県吉野郡吉野町吉野山にある神社である。祭神は、天乃水分大神とされる。
 天乃水分大神は、水の分配を司る神で、安産や子育てにご利益があると古くから信仰を集めている。
 延喜式にも名を連ねる古社で、大和でも有数の水分社のひとつである。
 みくまりが御子守(みこもり)となまり、俗に子守さんと呼ばれて親しまれた。
 社殿は豊臣秀頼の再建である。これは、豊臣秀吉が水分の神さまに祈願して秀頼をさずかった縁からという。
 楼門をくぐると本殿、幣殿、拝殿、回廊が口の字型に配されており、本殿は三社を一棟につないだ珍しい様式である。
 吉野水分神社は、今でも人々に親しまれている古い神社である。
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2007/2/16


小槌 Kozuchi Kozuchi (Magical Hammer)

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 通常、小槌は物を打ち付けたり、潰したりする道具だが、七福神の一柱の大黒様が持つ「打出の小槌」は、振ると財運と衣食住の幸せをもたらすとされ、米俵に乗り福袋と打出の小槌を持った微笑の長者形は愛らしささえある。袋を背負っているのは、大国主が日本神話で最初に登場する「因幡の白兎」において、八十神たちの荷物を入れた袋を持っていた為である。また、大国主がスサノオの計略によって焼き殺されそうになった時に、鼠が助けたというおとぎ話から、鼠が大黒天の使いであるとされる。当初の大黒天は、破壊と豊穣の神として信仰され、後に豊穣の面が残り、食物・財福を司る神となった。
 その他に「一寸法師」や「貧乏神と福の神」という昔話にも「打出の小槌」は出てきて、願いを叶えるものとして使われている。
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2007/1/23


林家舞楽 Hayashi-ke-bugaku Hayashi-ke Bugaku

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 山形県西村山郡谷地に代々伝わる神楽。日本四大神楽(宮中、大阪四天王寺、楢南都楽所、林家舞楽)のひとつ。国の重要無形文化財。六世紀から八世紀にかけて、シルクロードを渡り中国から仏教とともに、日本に伝えられた。
 楽器を取り入れ、赤を中心とした派手な衣装と、迫力あるお面を付け、躍動感あふれる動きで芸術を表現し、日本では仏教の儀式として行なわれるようになった。
 林家舞楽は「天王寺系」といわれる。聖徳大使が難波天王寺を拠点とし、伝習の場を築き、限られた楽人に姓を与えた。その中に「林氏」の名があり、その一派が山形に移り伝承したものである。
 山形では、慈恩寺と立石寺が儀式楽を司るべく、林越前政照にその命を与え、林氏は楽人一派を連れ定住した。
 千百余年、伝承されているシルクロードの遺宝である。
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2007/1/12


阿波十郎兵屋敷 Awajuuroubee-yashiki Awa Jurobe's House

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 江戸時代に爛熟期を迎えた浄瑠璃の傑作、「傾城阿波の鳴門」の主人公として知られる坂東十郎兵衛。
その屋敷は今も残され、浄瑠璃をいまに伝える建物として、この地に佇んでいる。
 約300年前の建物は、剛健な印象を残す門構え、黒松と自然石を巧みに配した元禄様式の日本庭園などともに、当時の気風を感じさせる。
 この屋敷の主であった板東十郎兵衛は、今で言えば米の「密輸」を司る、公にできない職務を務めていた。当時、各藩が米を独自に調達することは御法度であったが、阿波藩は藍作と製塩を奨励したために米が不足しており、秘密裏に十郎兵衛に調達役を負わせたのである。
 のち、彼の部下の不正が明らかとなり、藩は罪状を明らかにせぬまま、十郎兵衛を処刑することで幕府の追及を逃れた。このことが世の人の同情を誘い、彼を題材とした浄瑠璃の上演へとつながるのである
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2006/12/18


雷門 Kaminari-mon Kaminari-mon Gate

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 「浅草の顔」として有名な雷門は、日本最古の寺院である浅草寺(せんそうじ)の総門。雷門は通称で、正式名称は「風雷神門」。その名のごとく、門の右側に風神像、左側に雷神像が安置されている。二神は、古来より五穀豊穣を司る神として崇められてきた。
 最初の門が建てられたのは天慶五(942)年。その後、火災による焼失、再建が繰り返されたが、慶応元(1865)年から95年間、門は不在であった。和風建築物をコンクリートで造る技術が活かされ、昭和三五(1960)年に鉄筋コンクリート造りで再建された。 
 建物の様式は、本瓦葺の切り妻造り。門の間口は六間半(11.8メートル)奥行き三間(5.4メートル)。中央に吊り下がる大堤灯は、高さ4メートル、直径3.4メートル、重さ670キロ。
 朱色の門、左右に奉られた神、不自然なほど大きな提灯。わび・さびとは異なる、この組み合わせは世界に類のない日本の文化といえよう。
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