NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/10/17


安土城跡 Azuchi-jou-ato Azuchi Castle Ruins

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 安土城跡(あづちじょうあと)は標高一九九mの安土山の裾野一帯に残る、歴史上に名を残す、織田信長の居城跡である。
 安土城は安土・桃山時代の幕開けとして、天正四(1576)年から三年の歳月をかけて、織田信長に命じられた丹羽長秀によって築城されたとされる。
 当時の最高の建築技術を駆使して造られたといわれ、また贅を尽くした壮麗な天守閣を持つ、非常に豪華な城郭であったといわれている。その僅か三年後、信長が倒れた本能寺の変の後に焼失して廃城となったという。焼失の原因は定かではない。
 城主の地位を感じさせる奥行きのある石垣、あちこちに建つ礎石、道の縁側に使われている石仏、焼失を免れた仁王門など、随所に長い歴史のロマンを感じさせる名城跡である。
 国特別史跡に指定され、城内石段の改修や天主(天守)・本丸跡の発掘調査、学術調査などが現在も行われている。
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2007/5/1


本能寺 Honou-ji 

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 現在の本能寺は、京都市中京区寺町通御池にあるが、天正一〇(1582)年「本能寺の変」の当時は、四条西洞院に30余坊を構える大寺院であった。今はその地に「之付近本能寺址」と彫られた石碑が立っている。
 創建は応永二二(1415)年。日降上人を開基とする法華宗の寺である。現在の寺域は、天正一五(1587)年豊臣秀吉の命で移転されたもので、天正二〇(1592)年に伽藍が再建され、当時は、現在の御池通りと京都市役所を含む広大な敷地であった。江戸時代の幾たびの火災、そして幕末の蛤御門の変で堂宇を焼失している。現在の本堂は昭和の再建である。
 創建以来のたび重なる焼き討ちや火災。その難を逃れるためか、本能寺門の石札の「能」の字は、右の「ヒヒ」が「去」になっている。
 能書家として知られた藤原行成の国宝「伝藤原行成筆巻」をはじめ、織田信長の遺品や本能寺の変を潜り抜けた茶道具の数々を所蔵する。
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2007/2/14


清洲城 Kiyosu-jyou Kiyosu Castle

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 愛知県清須市にあるお城。
 歴史は、1405年、尾張・遠江・越前守護の斯波(しば)義重によって築城された。また代々尾張守護、織田家の本城として、天下布武への足がかりの拠点である。1478年には尾張国の中心的地となる。
 その後、織田信長が本能寺の変で没すると信雄が相続した。しかし後の天下人豊臣秀吉に逆らい、追い出され福島正則が城主となる。
 関が原の戦いで、徳川家が入城するようになる。
 名古屋城ができた頃の1609年城下町が入れ替わり、また、清洲城の資材を利用して名古屋城を完成させたため、廃城となった。
 現在の「清洲城」は1989年に復元されたものである。場所も実際にあった場所ではないものの、五条川にかかる赤い橋(大手橋)とともに、清須市のシンボルとなっている。
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2007/1/23


亀山城跡 Kameyamajo-ato Ruins of Kameyama Castle

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 亀山城跡は、京都府亀岡市にある、明智光秀が築いた丹波亀山城(亀宝城、霞城)の跡で、現在は扇形の石垣と天守台、内濠の一部が残るのみとなっている。
 丹波亀山城は、1577年に明智光秀が造らせたもので、1610年に藤堂高虎らにより五重天守に大手門、外堀などを備えた亀山城が完成した。
 明治十(1877)年、明治政府の城郭処分により取り壊され、以後荒れ果てていた城跡を大正八(1919)年大本教が買い取り、残った石により昭和の初期頃までに石垣が再築され現在に至る。
 また、「本能寺の変の裏舞台」としても有名である。明智光秀は、この亀山城から出発して、本能寺にいる織田信長を討ち、「三日天下」を手にした。
亀山城跡は、戦国の昔に思いを巡らせられる、夢の跡である。
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