NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/2/6


落柿舎 Rakushi-sha 

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 落柿舎(らくししゃ)は、京都嵯峨野の豊かな緑の中に佇む一軒の草庵である。
 江戸期の俳人であり、松尾芭蕉門下の「蕉門十哲」の一人でもあった向井去来(むかいきょらい)が閉居としていた庵で、貞享三(1686)年に造営された。
 落柿舎の名の由来は、庭に実った柿を売る契約を交わし、代金ももらったその翌日、台風で全て落ちてしまった出来事にあるという。
 元禄四(1691)年には芭蕉がこの庵に滞在、「嵯峨日記」を記したともいわれている。
 去来の没後は庵は荒廃し、元の場所も分からなくなっていたが、明和七(1770)年、京都の俳人であった井上重厚が、現在の地に再建した。
 嵯峨野に広がる山と、のどかな田園風景に溶け込むわら葺きの建物は、いつか見たような懐かしい風情を漂わせている。
 去来在宅を訪れる人に知らせていたといわれる蓑と笠が、今も土間の壁に掛けられている。
 庵に赴けば、入り口から見える蓑と笠。どうやら主人は在宅のようである。
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2007/12/20


東京 福相寺 Toukyou Fukusou-ji 

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 東京の福相寺(ふくそうじ)は、東京都杉並区堀ノ内にある日蓮宗の寺である。本尊は日蓮上人像、十界諸尊。
 天正一七(1589)年、一如院日重により下谷に開創され、その後、寺地が上野・寛永寺の境内地となったため小石川白山前に移転し、昭和一二(1937)年、現在地に移転した。
 寺の僧・日元が大阪に行った際、長病の某氏の為に同家に安置されていた伝教大師作の大黒天を清めお祈りした所、全快した。
 以来この像は、病気平癒の御利益がある寺鎮護の神として境内に安置され、これが江戸後期に庶民の信仰を集め、遠く関西方面からも参詣客があり、その人々が奉納した石塔が今も境内に残っている。
 墓地には、俳人・長谷川零余子(れいよし)・かな女(かなにょ)夫妻の句碑と墓がある。
 東京の福相寺は、江戸時代から人々に親しまれている寺である。
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2007/10/11


龍光院 Ryuukou-in 

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 龍光院(りゅうこういん)は縁起によれば、大同元(806)年、最澄(弘法大師)が四国八十八カ所霊場の開創を発願し成就したのを記念して、宇和島湾の九島に建立したのが始まりとされる。大師二回目の巡錫(じゅんしゃく)の際、島にあるのは不便だとして現在地に移された。寛永一五(1638)年に京都大覚寺二品親王空性が四国遍路の折り、臨海山福寿寺(ふくじゅじ)の号を与えた。昭和二〇(1945)年、大戦の空襲に見舞われたが、その後復興された。
 111段の石段を上るにつれ宇和島城が見えてくる。階段を上り切ると本堂や大師堂が現われ、境内には芭蕉の句碑や、大阪の俳人・椎本芳室(しいもとほうしつ)を称える宇和島最古の文学碑などが置かれている。本尊は十一面観世音菩薩。山頂にある白亜の除災招福大観音は平成二(1990)年、万民の平和と幸福を願い建立された。一石彫りとしては西日本随一の大きさを誇る。
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2007/10/4


良寛 Ryoukan Ryokan

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 良寛(りょうかん)は、江戸後期の曹洞宗の禅僧で、歌人、漢詩人、書家としても知られる。
 宝暦八(1758)年、越後国出雲崎(現・新潟県)に誕生。土地の名主で、俳人でもある父から、影響を受けて育った。
 大森子陽の塾で学び、名主見習役を経て、円通寺の国仙和尚のもとで出家。その頃、和歌に親しむようになり、歌人との交流や創作を重ねてゆく。
 三三歳の頃、国仙和尚より印可の偈を与えられる。以後、民衆の教化に努めたが、難解な説法を避け、分かり易い言葉を用いた。特定の寺を持たず、自らの質素な生活を開示することで、民衆の共感や信頼を得ていた。
 良寛の住む五合庵には、実に多くの芸術家や学者が訪れた。般若湯(酒)を好み、自らを慕う人々と頻繁に杯を交わしたと伝わる。
 天保二(1831)年、良寛死去。歌集『蓮の露』を弟子の貞心尼が編んだ。
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2007/8/6


仙台御筆・宮城野萩筆 Sendai-ofude Miyagino-hagi-fude Sendai Ofude (Brushes), Miyagino Hagi-fude

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 仙台御筆(せんだいおふで)とは、慶長十九(1614)年に仙台藩祖伊達政宗が、大阪より筆職人を招聘(しょうへい)して筆師育成と共に、学問と勧業の両面を積極的に奨励したことから生まれたものである。
 筆職人を召抱えて以降は、常時筆師の育成が行われ、藩士たちの内職としても作られたことから、そうした切磋琢磨により技巧もより精細となっていく。
 丁寧な技法や仕事振りで生み出される筆の名声は高まっていき、ついには時の将軍に献上されたことから、恭しく「仙台御筆」と呼ばれるようになったといわれている。
 そんな筆製作技術が向上する中、趣味人でもあった政宗公が仙台藩の狩場である宮城野原に自生していた萩を軸にして作らせたのが宮城野萩筆(みやぎのはぎふで)である。
 野趣性あふれる軸と、その先に付く繊細な筆先との組み合わせは、広く全国の歌人や俳人に好まれ、仙台御筆における象徴的な逸品として、今も多くの愛好家に親しまれている。
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2007/6/4


鳴海宿 Narumi-juku Narumi-juku

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 鳴海宿(なるみじゅく)は江戸の五街道の一つ、京と江戸を結ぶ東海道の宿場であり、今の愛知県名古屋市緑区鳴海町にあたる。
 有名な安藤広重の「東海道五十三次」という作品にあるように、東海道には53箇所の宿場があるが、鳴海宿は40番目になる。
 この手前の池鯉鮒宿との間(間の宿)の有松で生産されていた木綿の絞りが街道筋の人気商品になり、鳴海宿には商家が立ち並ぶようになって栄えた。
 東海道五十三次にも鳴海宿の絞りのことが書かれている。
 また、俳人である松尾芭蕉とも縁のある場所でもあり、この宿にある誓願寺には最も古い芭蕉の供養塔がある。
 この鳴海宿を抜けると、かの織田信長の名を一躍世に知らしめた桶狭間の古戦場が見えてくる。
 江戸からの距離およそ350km。次の宮宿までおよそ13km。
 木綿の絞りを羽織って、芭蕉のように古戦場で兵どもの夢の名残に思いを馳せて次の宿場へ向かう。旅の冥利に尽きる一幕が、そこにはある。
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2007/5/29


群馬 照葉峡 Gunma Teriha-kyou Teriha Gorge

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 群馬の照葉峡(てりはきょう)は、群馬県利根郡みなかみ町にある渓谷である。
 俳人・水原秋桜子命名の11の滝があり、それぞれ、ひぐらし・木の実・時雨・不断・つづみ・木精・翡翠・山彦・白龍・岩魚・潜龍と、秋桜子らしい美しい名前が付けられている。
 それぞれが異なった優美さを持ち、なかでも「つづみの滝」の紅葉は圧巻である。
 湯の小屋川の上流に続く渓谷で、新緑の季節はもちろん、秋には渓流沿いの木々が絵画のように紅葉する中を滝が落ち、赤や黄の鮮やかな錦模様を織りなすその景観は「美しい」の一言に尽きる。
 渓谷沿いを歩いて全部回っても1時間とかからず、ゆったり森林浴が出来る、知られざる名所といえる。
 照葉峡は、紅葉の美しい、秘境の趣がある景勝地である。
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2007/2/26


須賀川牡丹園 Sugakawa-botan-en 

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 240年程前の1766年、須賀川で薬種商を営んでいた伊藤祐倫が牡丹の根を薬用にしようと、苗木を摂津から取り寄せ栽培したのが始まり。その後、明治初期に柳沼家が受け継ぎ、種類、株数を年々増やし、現在の形をつくり、1932年には国の名勝に指定された。
 風薫る5月の息吹とともに、10ヘクタールの園内で290種、7000株の古木が華やかに、そして優雅に咲き誇る。規模も美しさも世界最大級の名勝。正面に立つ牡丹園のシンボルである牡丹姫像は、友好都市中国洛陽との牡丹を架け橋とする交流の証として建てられた。
 毎年11月の第3土曜日の夜、牡丹園内では、牡丹焚火が催される。この催しは、天寿をまっとうした牡丹の枯木を供養するもので、赤々と炎を立ち上げ天に昇り最後を奉る。1978年から、この焚火を囲んで句会が開かれており、毎年全国から100人以上の俳人が訪れている。
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