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2008/10/22


室町彫刻 muromachi-choukoku 

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 室町彫刻とは、室町時代(1392~1573)に彫られた、主に仏像・肖像彫刻のことである。
 南北朝・室町を通じて木彫が主流で、偶像を必要としない禅宗が盛んになった事もあり、仏像製作において著しい発達を見た鎌倉時代に比べ、多くの仏師たちは職業仏師に徹し、従来の形式を追うのみで新しい様式を生み出すことがなかったとされる。
 しかし禅宗寺院では仏像はなくとも祖師や開山の像がまつられており、これら肖像彫刻は、個性的な写実表現と禅宗的人格表現を基調とした新しい感覚のものであった。
 また実際には、戦火に見舞われながら仏像が造られ続ける中で、合理性が追求された箱型寄木造りが採用されたり、接着用の膠(にかわ)が多用されたりするなど技法上の改革もあった。
 一方、観阿弥、世阿弥によって大成された能から、仮面彫刻としての能面が生まれている。
 室町彫刻は、仏像彫刻に代わり肖像彫刻が主流となっていった時代の彫刻である。
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2008/6/30


平林城 Hirabayashi-jou 

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 平林城(ひらばやしじょう)は新潟県岩船郡神林村平林に位置する中世時代の居城跡である。別名加護山城(かごやまじょう)とも呼ばれている。
 築城年は不明であるが、一四世紀頃の南北朝時代に存在した。最初は南朝派の豪族平林氏の居城であったが、のちに北朝派の色部氏が制圧した。
 慶長三(1598)年に上杉景勝の会津移封により廃城となり、周囲の人口も激減したため風化していった。
 数多くの遺構が残っており曲輪、堀切、土塁、空堀、虎口、馬洗い、首切り清水などが発掘されている。
 中世史を理解する上に重要な史跡として、昭和五三(1978)年、国指定の史跡名勝記念物となった。
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2008/6/25


佐敷城 Sashiki-jou 

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 佐敷城(さしきじょう)は熊本県葦北郡の標高85メートルの丘に建てられていた山城である。
 南北朝時代、薩摩の名門篠原氏一族の佐敷氏による築城と伝えられている。後の天正九(1576)年にはこの地を攻略した島津義久の配下となったが、天正一五(1582)年には加藤清正の領地となり加藤重次が城主となった。しかし、江戸時代の元和元(1615)年の幕府の一国一城令により廃城。その後も佐敷城跡は要所として佐敷番代が置かれていた。
 現在城跡である山頂部分はきれいに整備され、当時のままの石垣が復元されている。山頂からは360度、パノラマ風に周囲の風景を見渡すことが出来る絶景の地でもある。
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2008/6/12


田丸城(玉丸城) Tamaru-jou(Tamaru-jou) 

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 田丸城(たまるじょう)は、三重県度会郡玉城町田丸にあった城である。別名・玉丸城(たまるじょう)とも呼ばれる。
 延元元(1336)年、南北朝時代に北畠親房(きたばたけちかふさ)が築き、愛洲氏を城主とした城で、当時は玉丸城と呼ばれ、城をめぐって激しい攻防戦が展開された。
 天正三(1575)年、北畠信雄が3層の天守閣をもつ堅固な城に改修し、田丸城と改称した。
 その後、織田信長の次男・信雄が居城とし、後には蒲生(がもう)氏郷配下の田丸直正が城代となった。
 江戸時代には徳川家紀州藩管理となり、家老の久野氏が代々城代を勤め、明治維新を迎えた。
 現在、城跡は城山公園になっており、公園内には石垣や内堀が残されている。
 田丸城は、戦国時代に争奪戦が繰り広げられた平山城である。
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2008/6/4


栃尾城 Tochio-jou 

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 栃尾城(とちおじょう)は、新潟県長岡市栃尾にある城跡だ。
 標高228mの鶴城山に築かれた、戦国時代における典型的な山城となっていた。
 その歴史は古く、天平年間(729~748)に防人の在営地として築かれたという伝えがあるが、現在のような縄張りの城になったのは南北朝時代の正平年間(1346~1369年)、足利尊氏の命によるものとされ、馬蹄型の郭を構成し、それぞれの郭の間は空堀で独立させるなど、堅城として有名であった。
 また、上杉謙信が春日山で幼年から青年期を過ごし、跡目争いが起こった際にはこの城が初陣の地となったことでも知られており、戦国末期の慶長一五(1610)年に廃城となるまで、上杉勢の城であった。
 現在でも山には馬場や本丸、二ノ丸といった郭跡や竪堀の遺構など、ほとんどの曲輪が残されており、謙信も見たであろう山頂からの栃尾盆地を一望する絶景と共に、往時を偲ばせている。
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2008/5/26


摩利支天徳大寺 Marishiten-Tokudai-ji 

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 摩利支天徳大寺(まりしてんとくだいじ)は、東京都台東区上野にある日蓮宗の寺である。本尊は、日親筆の十界曼荼羅、摩利支尊天。日本三大摩利支天の一つとされる。
 南北朝時代の正平年間(1346~1370)に創立され、慈光院日遺上人によって開山されたと伝わる。
 上野はアメヤ横丁の中央部に位置しており、当時この地一帯は「忍ぶが丘」と呼ばれていたが、開運摩利支天を勧請してから全国より絶えることの無い参詣者により俄然、活況を呈し、上野と呼ばれるようになった。
 本尊の摩利支天像は聖徳太子の作と伝わる古いもので、光と陽炎の中に姿を潜ませて人々を災難から守るといわれ、祈念すれば火難、水難、盗難など万難から守ってもらえるといわれている。
 摩利支天徳大寺は、護身・傷つかないというご利益から、特に武士の間で信仰された古刹である。
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2008/5/20


隈府城(菊池城) Waifu-jou(Kikuchi-jou) 

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 隈府城(わいふじょう)は熊本県菊池市にあった城である。
 正平年間(1346~1369年)、南北朝時代に九州で南朝の中心的存在であった菊地氏が築城したものである。そのため、菊池城ともいわれている。後に菊地家の家老であった隈部親永(くまべちかなが)が城主となった。羽柴秀吉が九州を平定してから、隈部親永は佐々成政(ささなりまさ)の配下となったが、検地に反抗し一揆を企てたため、佐々成政に攻めこまれ城は落城、隈府城は廃城となった。
 現在は、空堀や土塁を残すだけで、本丸跡には明治時代に菊地氏を祀る菊地神社が建立されている。
 境内には資料館が設けられ、この地の歴史を知ることが出来る。また、記念碑も設けられ、広場には菊地武光公の像も建てられている。地元では桜やツツジの名所としても有名な場所である。
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2008/5/1


杣山城 Somayama-jou 

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 福井県南条郡南越前町の南東に位置する標高四九二mの杣山(そまやま)は、気軽なハイキング向けの山として親しまれているが、道は急でやや険しい。
 この山頂に、鎌倉時代、杣山庄の地頭であった瓜生氏(うりううじ)が築城した杣山城がある。現在でも山全体が城址として残されている。
 南北朝時代、斯波高経(しばたかつね)らに攻められた新田義貞と弟の脇屋義助は、金ヶ崎城から杣山城へと逃げ込み、城は当主瓜生保(うりうたもつ)を中心とした南朝方の拠点となり、北朝方と戦ったとされる。
 義貞の内室、勾当内侍が一時隠れていたという姫穴や、当主の戦死の知らせ聞いて女達が飛び降り自害したという、袿掛岩(うちかけいわ)なども残されており、山を上ると気分は中世へといざなわれる。
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