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2008/3/12


高浜虚子句碑 Takahama-kyoshi-kuhai 

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 成田山新勝寺大本堂の後方に広がる、一六万五千平方メートルの大庭園、成田山公園には、様々な句碑や銅像がある。その中に高浜虚子(たかはまきょし)の句碑が建っている。
 俳人であった高浜虚子は、正岡子規に師事し、正岡子規が友人とともに創刊した俳句雑誌「ホトトギス」の発行を引き継ぎ、俳句の普及と後輩の育成に努めた。
 この公園には、もともと七代目市川団十郎とその父である六世団蔵の銅像があった。明治四三(1910)年、日本初の俳優の銅像として成田山公園に七代目団蔵が奉納したものである。
 しかし、銅像は昭和一八(1943)年の第二次世界大戦時に供出されたため、その代わりに八代目団蔵が、七代目団蔵の供養に加え、団蔵と交流のあった高浜虚子の句碑を建てた。
「凄かりし 月の団蔵 七代目」
 二三人の俳人と一緒に成田を訪れた高浜虚子が、明治三三(1900)三月号の文芸雑誌「ホトトギス」に、その時の様子を「成田詣」という題で記している。    
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2008/2/8


壬生寺 Mibu-dera 

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 京都府京都市中京区にある寺。
 奈良時代の創建と伝えられ、正暦二(991)年、大津にある三井寺(園城寺)の僧・快賢が再興して「小三井寺」と呼ばれた古刹である。中世には円覚上人が寺を再興し壬生狂言(壬生大念仏狂言)を興した。壬生寺は京都三大狂言の一つである壬生狂言を伝える寺として、今も京の庶民に親しまれている。また幕末には、新撰組がこの寺を「兵法鍛錬場」として使用したことから、新撰組のゆかりの寺としても有名である。境内の壬生塚には、近藤勇の銅像や隊士の供養搭などが残っている。
 壬生狂言が演じられる「大念佛堂」、秘仏である辧財天が祀られている「弁天堂」をはじめ、五仏錫杖頭(ごぶつしゃくじょうとう)(重要文化財)や列仙図屏風(れっせんずびょうぶ)(長谷川等伯筆・重要文化財)などや、室町時代の作を含む190点もの狂言の面を今に伝えている。
 今も、壬生の地の人々の中にある寺である。
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2007/9/6


陸奥国分寺 薬師堂 Mutsu-kokubun-ji Yakushi-dou The Yakushido Hall at Mutsu Kokubunji Temple

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 陸奥国分寺(むつこくぶんじ)は、宮城県仙台市若林区木ノ下にある高野山真言宗の寺である。本尊は、薬師如来。
 奈良時代、全国に建立された国分寺の中で最北に位置したのが陸奥国分寺であるが、文治五(1189)年に焼失し、慶長一二(1607)年に伊達政宗によって再建された。
 薬師堂(やくしどう)は、再建時に仁王門や鐘楼などと共に建築された。
 素木造り単層入母屋造りで、内陣には重文指定の家形厨子が安置され、厨子内の銅像・薬師如来は秘仏とされている。
 薬師堂は、大崎八幡宮とともに仙台市内における桃山様式の代表的建造物であり、国の重要文化財に指定されている。
 陸奥国分寺の薬師堂は、昔を偲ばせる、豪壮な建築物である。
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2007/8/14


延岡大師祭 Nobeoka-daishi-matsuri Nobeoka Daishi Festival

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 延岡大師祭(のべおかだいしまつり)は、宮崎県延岡市の今山を中心に毎年四月に開催される、宮崎県北最大の春祭りである。九州三大春祭りのひとつとされる。
 今山の頂上にそびえる弘法大師銅像は、昭和三二(1957)年に完成した、高さ17m、重さ11トンの日本一の大師像である。
 弘法大師は古くから「おだいっさん」の愛称で親しまれてきており、大師祭は、弘法大師の命日にあたる承和二(835)年の旧暦三月二一日を供養と感謝の日として、毎年3日間にわたり開催され、今日まで続けられている。
 メインイベントとなる最終日の市中パレードには延岡市長も参加する大名行列をはじめ、市内の団体約1700人が参加して踊りやパフォーマンスを盛大に披露し、市中を練り歩く。
 延岡大師祭は、延岡を代表する賑やかな祭りである。
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2007/6/25


港文館 Koubun-kan 

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 北海道釧路市の港に流れ込む釧路川河口を望む場所に、港文館が建っている。
 元々はかの石川啄木も短期間ではあったが、新聞記者として勤めていた釧路新聞社として明治四一(1908)年に建てられた、当時としては道東唯一のレンガ作りの洋風建築だった。昭和十七(1942)年以降は北海道新聞釧路支社として使用され、取り壊されることとなる。
 その後、平成五(1993)年に一階は港湾資料、二階は郷土資料の展示スペースとして、港文館の名で復元されることとなった。
 釧路の歴史や港湾史などをつぶさに見学できるのだが、郷土資料においてはそのほとんどが啄木のもので占められている。釧路での滞在はわずか76日だった啄木だが、後世に残した影響は色濃い。敷地内には啄木の銅像も建立されている。
 一階の喫茶スペースで、夕陽にまどろむ啄木像を眺めつつコーヒーを味わう。ほんの少し、自分も詩人になった気分に浸れるかもしれない。
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2007/6/6


北海道 弁慶岬 Hokkaidou Benkei-misaki 

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 弁慶岬(べんけいみさき)は、北海道・寿都湾(すっつわん)の西、月越山脈が日本海に突き出た所にある岬だ。文字通り、弁慶ゆかりの伝説の残る寿都の名所である。
 その昔、弁慶の舎弟ともいうべき常陸坊海尊が、義経再挙の兵を募って蝦夷へ向かったという情報を得た弁慶は、毎日この岬の先端に立ち、海尊の到着を待っていた。そんな弁慶の姿を見ていたアイヌの人々は、この岬のことをいつしか「弁慶岬」と呼ぶようになったという伝説が残り、その姿を再現した銅像が建てられている。
 弁慶岬は「狩場・茂津多道立自然公園」の中にあり、夕日の名所としても有名だ。遥か遠くに狩場山、茂津多・積丹・雷電の岬を一望できるビュースポットである。夕暮れとともに点灯される弁慶岬灯台も、景勝をより幻想的なものにしている。
 岬に打ち寄せる波は、今も変わることなく沖へと弁慶の想いを運んでいるかのようである。
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2007/5/15


羽黒山参道 Haguro-yama-sandou Haguro Mountain Pathway

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 山形県鶴岡市羽黒町、羽黒山にある出羽三山神社までの山道。
 参道の周りには、老杉並木500本が続く。
 参道は3つの上り坂がある。「一の坂」の手前には、「原賀の滝」「神橋」があり、少し登ると、わき道に1375年に再建されたといわれる国宝「羽黒五重塔」がひっそりとある。その傍に、特別天然記念物、樹齢1000年の「爺杉」と呼ばれる巨木が紹介されている。
 「二の坂」を上りきったところには、「茶屋」があり、道中の疲れを癒してくれる。
 頂上には「出羽三山神社」がある。社殿は権現造りで高さ28メートル、厚さ2.1メートルもの藁葺屋根は東北隋一といわれる。
 奥の細道でも有名であり、芭蕉の銅像が立てられている。
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2007/3/2


闘鶏神社 Toukei-jinjya 

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 闘鶏神社は、允恭天皇8(423)年創建とあるが、紀伊国続風土記には、熊野別当18代湛快(たんかい)のときに熊野三所権現を勧請したと記されている。
 正面奥に熊野別当21代湛増(たんぞう、湛決の子)と弁慶(湛増の子と伝えられる)の銅像があり、二人の前で二羽の鶏が闘っている。これが闘鶏神社という一風変わった社名の由来を表わしている。
 鳥居をくぐると、左手に大楠、社殿は、正面にはなく、右手に並んでいる。大楠は、落雷により中央部を失ったため高さはないが、幹回り、枝振りは見事なもので、樹齢1200年ほどと推測され、歯病平癒の御利益があるとされている。、
 また、闘鶏神社は勝負の神様としても御利益があるともいわれている。
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