落柿舎 Rakushi-sha
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落柿舎(らくししゃ)は、京都嵯峨野の豊かな緑の中に佇む一軒の草庵である。
江戸期の俳人であり、松尾芭蕉門下の「蕉門十哲」の一人でもあった向井去来(むかいきょらい)が閉居としていた庵で、貞享三(1686)年に造営された。
落柿舎の名の由来は、庭に実った柿を売る契約を交わし、代金ももらったその翌日、台風で全て落ちてしまった出来事にあるという。
元禄四(1691)年には芭蕉がこの庵に滞在、「嵯峨日記」を記したともいわれている。
去来の没後は庵は荒廃し、元の場所も分からなくなっていたが、明和七(1770)年、京都の俳人であった井上重厚が、現在の地に再建した。
嵯峨野に広がる山と、のどかな田園風景に溶け込むわら葺きの建物は、いつか見たような懐かしい風情を漂わせている。
去来在宅を訪れる人に知らせていたといわれる蓑と笠が、今も土間の壁に掛けられている。
庵に赴けば、入り口から見える蓑と笠。どうやら主人は在宅のようである。
江戸期の俳人であり、松尾芭蕉門下の「蕉門十哲」の一人でもあった向井去来(むかいきょらい)が閉居としていた庵で、貞享三(1686)年に造営された。
落柿舎の名の由来は、庭に実った柿を売る契約を交わし、代金ももらったその翌日、台風で全て落ちてしまった出来事にあるという。
元禄四(1691)年には芭蕉がこの庵に滞在、「嵯峨日記」を記したともいわれている。
去来の没後は庵は荒廃し、元の場所も分からなくなっていたが、明和七(1770)年、京都の俳人であった井上重厚が、現在の地に再建した。
嵯峨野に広がる山と、のどかな田園風景に溶け込むわら葺きの建物は、いつか見たような懐かしい風情を漂わせている。
去来在宅を訪れる人に知らせていたといわれる蓑と笠が、今も土間の壁に掛けられている。
庵に赴けば、入り口から見える蓑と笠。どうやら主人は在宅のようである。
- 住所
- 616-8391 京都府京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町2
- 名前
- 落柿舎