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2007/10/4


良寛 Ryoukan Ryokan

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 良寛(りょうかん)は、江戸後期の曹洞宗の禅僧で、歌人、漢詩人、書家としても知られる。
 宝暦八(1758)年、越後国出雲崎(現・新潟県)に誕生。土地の名主で、俳人でもある父から、影響を受けて育った。
 大森子陽の塾で学び、名主見習役を経て、円通寺の国仙和尚のもとで出家。その頃、和歌に親しむようになり、歌人との交流や創作を重ねてゆく。
 三三歳の頃、国仙和尚より印可の偈を与えられる。以後、民衆の教化に努めたが、難解な説法を避け、分かり易い言葉を用いた。特定の寺を持たず、自らの質素な生活を開示することで、民衆の共感や信頼を得ていた。
 良寛の住む五合庵には、実に多くの芸術家や学者が訪れた。般若湯(酒)を好み、自らを慕う人々と頻繁に杯を交わしたと伝わる。
 天保二(1831)年、良寛死去。歌集『蓮の露』を弟子の貞心尼が編んだ。
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2007/9/25


宮本武蔵 Miyamoto Musashi Miyamoto Musashi

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 宮本武蔵(みやもとむさし)は、江戸時代初期に活躍した剣豪である。近代においては、処世訓や座右の銘を残した偉大な思想家としての認識も強い。
 天正一二(1584)年に誕生。13歳で最初の決闘に勝利し、諸国を巡り剣の腕を磨き、その後60回以上の決闘で負け知らずだった。剣客・佐々木小次郎との「巌流島の決闘」が有名。
 代名詞である「二刀流(二刀使い)」を始め、実用主義に貫かれた兵法が宮本武蔵の特徴だった。「なんのための剣か?」を肉体の側から思考し続けた。
 武蔵の手先の器用さ、感性の鋭さは、絵画・書画・彫刻・工芸の世界にまで及んだ。また町割り(都市計画)や造園などの事業でも優れた才能を発揮した。
 死の直前に、独自の兵法を理論化した『五輪書』を著した。戦術論を超えて、精神の扱い方を示唆する、武士道の先鞭をつける内容である。
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2007/9/13


粋な和柄の文庫本カバー Iki-na-wagara-no-bunkobon-kabaa 

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 普段、何気なく使っているものにその人柄が多少なりとも反映されているもの。
 ならば、そこに少しだけ「演出」をくわえてみるのも良いかも知れない。
 粋な和柄の文庫本カバーはそうした「ちょっとした演出」にはもってこいのものだといえるだろう。
 紺色と淡い白を基調として、くどすぎる派手さもなく、だからといっておとなしすぎることもなく、一本だけ入った薄い緑が、程よいアクセントなっている。
 また、素材は綿百パーセントな上、裏生地もしっかりと張られ、ミシンで丁寧に縫い上げられていて使い心地も良い一品である。
 鮮やかな和柄を纏った本をバッグの中から取り出す。ただそれだけの所作にも「粋」な演出が施される。
 お気に入りの一冊があるのなら、その本にもおめかしをしてあげるつもりで気軽に纏わせてみてはいかがだろうか。
 そんな気軽さの中に光る演出こそ、粋の真骨頂である。
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2007/8/6


仙台御筆・宮城野萩筆 Sendai-ofude Miyagino-hagi-fude Sendai Ofude (Brushes), Miyagino Hagi-fude

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 仙台御筆(せんだいおふで)とは、慶長十九(1614)年に仙台藩祖伊達政宗が、大阪より筆職人を招聘(しょうへい)して筆師育成と共に、学問と勧業の両面を積極的に奨励したことから生まれたものである。
 筆職人を召抱えて以降は、常時筆師の育成が行われ、藩士たちの内職としても作られたことから、そうした切磋琢磨により技巧もより精細となっていく。
 丁寧な技法や仕事振りで生み出される筆の名声は高まっていき、ついには時の将軍に献上されたことから、恭しく「仙台御筆」と呼ばれるようになったといわれている。
 そんな筆製作技術が向上する中、趣味人でもあった政宗公が仙台藩の狩場である宮城野原に自生していた萩を軸にして作らせたのが宮城野萩筆(みやぎのはぎふで)である。
 野趣性あふれる軸と、その先に付く繊細な筆先との組み合わせは、広く全国の歌人や俳人に好まれ、仙台御筆における象徴的な逸品として、今も多くの愛好家に親しまれている。
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2007/7/20


武田双雲 TakedaSouun Souun Takeda

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 1975年、熊本県生まれ。書道家。3歳より書道家である母・武田双葉に師事。
 東京理科大学理工学部卒業後、約3年間のNTT勤務を経て書道家として独立。以降、狂言師や彫刻家、音楽家などさまざまなアーティストとのコラボレーションや斬新な個展など独自の創作活動を展開。また、多くの門下生を抱える書道教室を主宰する。「書は会話と同じ。自分は書でコミュニケーションを取りたいだけ」と静かにそして熱く語る新世代の書道家である。
 2003年、中国上海美術館より龍華翠褒賞受賞、イタリア・フィレンツェにてコスタンツァ・メディチ家芸術褒賞受賞。映画「春の雪」「北の零年」など数多くの題字も手がけている。著書に「たのしか」「書愉道 双雲流自由書入門」「「書」を書く愉しみ」がある。
[→より詳しい記事を見たい方はこちら]
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2007/5/29


空海 Kuukai Kukai

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 空海(くうかい)は、中国から密教を伝えた日本真言宗の開祖である。書道家としても、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆の一人と言われる。
 宝亀五(774)年、四国の善通寺近くにて生誕、奈良の大学で学ぶが、儒学では社会の矛盾を解決できないと悩み、空海と名乗り修験者となる。
 延暦二三(804)年、最澄らと中国へ渡り、文化・宗教などを学び、翌年、密教の頂点に立つ青龍寺の恵果を訪れ、密教を継承。二年後に帰国、高雄山寺にて真言宗を興し、中国で学んだ知識を活かして各地で土木工事の指揮を取り、書道や絵画・彫刻の才能を発揮し、宗教家・社会事業家・芸術家として精力的に活動したが、承和二(835)年、3月21日に高野山にて病死する。
 天安元(857)年、文徳天皇は空海に大僧正の号を遺贈する。
 延喜二一(921)年、醍醐天皇が空海に弘法大師の諡号を贈る。
 弘法大師空海は、平安以後の日本仏教に多大な影響を与えた、数多くの伝説を持つ高僧である。
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2007/5/22


佐瀬勇 Sase Isamu 

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 佐瀬勇さんは東京でただ一人、ガラスペンを製作する職人である。生まれは現在の千葉県印西市で、昭和十一年八月六日が誕生日。父の米蔵はガラスペンの創始者・佐々木定次郎のもとで修行した人。佐瀬さんは父に弟子入りし、佐々木定次郎直系の唯一の後継者となった。
 ガラスペンは、8本の細い溝のあるガラス棒を引き延ばしてペン先を作るもので、両手を同時に同じ早さ同じ力加減で回し続けるという、熟練の技が必要とされる。
 ガラスペンの書き味は鉛筆に近く、誰でも簡単に使える。インクはもとより墨汁なども使用できて、ペン先は腐食もせず、先端部の破損を防げば寿命は大変長いという優れもの。
 また平成元年ころ佐瀬さんが開発した「ひねりガラスペン」は、それまでの軸が竹や木のものとは違って軸とペン先が一体のガラス。見た目にも大変美しく、美術品としての赴きさえ感じさせる。発売当初、一度に2,000本の注文が来たこともあるという。
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2007/4/27


土佐硯 Tosa-suzuri 

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 約500年前、応仁の乱の頃、戦火を逃れ土佐に下った関白・一条教房公はのちに土佐の領主となった。
 文才があり、能書家でもあった一条公はこの地で良質の硯石を見つけだし、永く愛用したと伝えられる硯が土佐硯(とさすずり)である。
 昭和41年に、高知の書家である新谷健吉氏によって硯石が再発見され、以来硯の制作が始まり、三原村の特産品の一つとなっている。
 人肌に触れるようなしっとりとなじむ手触りと造形美はもちろんのこと、墨の色、艶が美しいことでも知られている。 
 かの有名な中国名硯の端溪硯(たんけいすずり)にも劣らぬ日本一の硯であり、別名「土佐溪硯」とも言わしめ、全国愛硯家に評されている。
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