NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/8/25


妙成寺 五重塔 Myoujou-ji Gojuu-no-tou 

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 妙成寺(みょうじょうじ)は、能登随一の日蓮宗の寺院である。
 前田利家、利常などの寄進により、大伽藍(だいがらん)と称される寺院群が美しく整備されている。
 地形を利用して、東西一直線に少しずつ高く、総門・楼門・五重塔を配してある。このため最高所の五重塔は、空にすっと立ち昇るようなシルエットをみせている。
 五重塔は、元和四(1618)年に建立されている。方三間(ほうさんげん)、栩葺(とちぶき)で、相輪も美しく、装飾も細部まで見事だ。壁の部分に厚い横板を渡す校倉(あぜくら)に似た独特の構造を持っていて、強い海風や地震にも強く、約四百年経った今も欠損がない。大工棟梁は建仁寺流の技を伝える坂上一門といわれており、江戸時代初期の代表的傑作といわれている。
 妙成寺は現在この五重塔も含め、主要建造物十棟が国指定重要文化財、三棟が県指定文化財である。
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2008/6/30


越中 安田城 Eccyu Yasuda-jou 

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 安田城(やすだじょう)は富山県富山市にある城址である。
 近隣の井田川の水を引き入れた広い堀が巡らされ、水堀に浮かぶ浮城のようである。本丸、二の丸、右郭で構成された戦国時代の平城で、城の建物は今はないが、発掘調査を経てその外形は現在も良い状態で残されている。
 安田城が創建された年は不明であるが、天正元年(1573)年の資料にはすでに存在している。
 天正一三(1585)年、豊臣秀吉が富山城主佐々成政を征伐した際、秀吉側の前田利家の家臣がこの城で陣を取った。これを機会にのちに前田利家やその家臣が居城としたが、一国一城令が発令される頃に廃城となった。
 昭和五六(1981)年に国指定史跡となっている。
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2008/5/14


高岡城 Takaoka-jou 

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 広大な堀を持つ城として有名な高岡城(たかおかじょう)は、加賀藩二代目藩主の前田利長の隠居城として慶長一四(1609)年に築かれた。城の設計にはキリシタン大名として有名な高山右近が関わっている。
 利長はその五年後に病気で亡くなったため、未完成のまま一国一城令が出された元和元(1615)年を迎え、廃城となった。その後は加賀藩の蔵として利用され、人々の立ち入りは禁止されたという。
 面積の約三割が堀になっていて、掘り出された土は土塁として利用されており、今も随所に石垣などと共に残されている。
 明治八(1875)年に高岡古城公園として開放されて以来、珍しい水濠公園として、また四季を通して古城の趣を満喫できるため、憩いの場として市民に親しまれている。
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井波城(瑞泉寺城) Inami-jou(zuisenji-jou) 

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 本願寺八代蓮如の次男である瑞泉寺(ずいぜんじ)三代蓮乗(れんじょう)が、本願寺を守り越中一向一揆の拠点とするべく、寺の旧地の周囲に土塁や外堀を築いて、城郭を構えたのが井波城(いなみじょう)の始まりである。築城は文明一六(1484)年の頃といわれている。
 天正九(1582)年、佐々成政(さっさなりまさ)によって陥落し、成政の家臣、前野小兵衛(まえのこへえ)が城として整備した。記録によると、阿弥陀堂跡を本丸、祖師堂跡を二の丸、太鼓堂を三の丸としたという。
 その四年後には前田利家によって落城したとされたが、間もなく廃城となったといわれている。
 城の遺構は現在もよく残されており、本丸跡には井波八幡神宮の社殿が建てられている。そこには瑞泉寺の名前の由来にもなった「臼浪水(きゅうろうすい)」という井戸もある。
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七尾城(松尾城) Nanao-jou(Matsuo-jou) 

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 石川県七尾市郊外にある七尾城(ななおじょう)は、七尾湾が一望できる、標高三一〇mの山の尾根上にある。その眺めはまさに壮観で、城を奪い取った上杉謙信が「絵にも描けない景勝」と誉め称えたと伝えられる。
 七尾は七つの尾根から由来するが、松尾城または末尾城とも記されている。
 代々畠山氏の居城で知られているが、築城については定かではなく、一説によると正長年間頃、能登国守護の畠山満慶によるとされている。
 当初は砦程度の城であったが、次第に軍事的要素が強まり、拡張・補強され、日本五大山城のひとつといわれるほど強固な城へと変わっていった。
 前田利家が拠点を小丸山城に移したことで、利家の子利政を最後の城主に廃城となる。
 山全体が城といえるその姿は壮観である。大規模な石垣が残されており、優れた遺跡として国に指定され、現在も整備保存されている。
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小松城 Komatsu-jou 

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 小松市の中心部にある小松城(こまつじょう)は、天正四(1576)年一向宗の宗徒であった若林長門(わかばやしながと)が、戦国武将の越前朝倉氏と戦うため、築城した平城である。
 柴田勝家に攻められて落城した後、村上氏、丹波氏と城主が替わった。
 元和元(1615)年の一国一城令の例外として、加賀藩三代目藩主、前田利常の隠居城として居城が認められ、城の大改修も許可されたことで知られている。
 小松城は別名を芦または浮城といい、それは梯川(かけはしがわ)の蛇行を巧みに利用した構造になっていたためである。それにより、湿地に浮かぶ城は外敵に対する防備も固かったとされる。
 戦後堀も全て埋められたが、天守台の石垣が当時の姿を偲ばせている。
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2008/4/15