NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/5/14


井波城(瑞泉寺城) Inami-jou(zuisenji-jou) 

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 本願寺八代蓮如の次男である瑞泉寺(ずいぜんじ)三代蓮乗(れんじょう)が、本願寺を守り越中一向一揆の拠点とするべく、寺の旧地の周囲に土塁や外堀を築いて、城郭を構えたのが井波城(いなみじょう)の始まりである。築城は文明一六(1484)年の頃といわれている。
 天正九(1582)年、佐々成政(さっさなりまさ)によって陥落し、成政の家臣、前野小兵衛(まえのこへえ)が城として整備した。記録によると、阿弥陀堂跡を本丸、祖師堂跡を二の丸、太鼓堂を三の丸としたという。
 その四年後には前田利家によって落城したとされたが、間もなく廃城となったといわれている。
 城の遺構は現在もよく残されており、本丸跡には井波八幡神宮の社殿が建てられている。そこには瑞泉寺の名前の由来にもなった「臼浪水(きゅうろうすい)」という井戸もある。
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金沢城(尾山城) Kanazawa-jou(Oyama-jou) 

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 天正八(1580)年、信長は柴田勝家に、本願寺の中心道場であった金沢御堂(かなざわみどう)を攻め落とすことを命じたという。犀川と浅野川に挟まれた小立野台地に築かれた金沢御堂は、尾山御坊(おやまごぼう)と呼ばれており、勝家によって落城した後、尾山城として勝家の甥、佐久間盛政が入城した。
 天正一一(1583)年の賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で盛政が亡くなった後、尾山城に入城した前田利家は、城の名前を金沢城と改め、大がかりな改修に取りかかった。金沢の職人の技を駆使して、天守閣の創建、石垣の整備などが行われたという。
 金沢御堂から金沢城へ、歴史と共にその姿を変えていった城は、幾たびかの火災によっても復興と再建が繰り返されてきた。
 シンボルともいわれる、見事に復元された菱櫓が一際目を引くその姿は、かつての長い歴史と威厳を今に伝える。
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二曲城 Futoge-jou 

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 鳥越城と共に、加賀一向一揆の拠点となった二曲城(ふとうげじょう)は、大日川を挟んで鳥越城の対岸にある、やや低い山の尾根に築かれた山城である。築城については定かではないが、一説によると永禄一三(1570年)頃、豪族二曲右京進(ふとうげうきょうのしん)が築城したといわれている。
 本願寺より派遣された鈴木出羽守(すずきでわのかみ)が鳥越城を築いた後は支城として鳥越城を補佐し、天正八(1580)年一一月に織田軍に対し落城するまで抵抗した。
 規模はやや小さいが、登山道入り口には虎口の土塁、頂上には平削地があり、鳥越城を背後から見守る砦の役目をしていた面影が今も残されている。
 麓には親水公園が広がり、登山道はよく整備されている。近くには歴史館があり、一向一揆の歴史などがわかりやすく伝えられている。
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2007/7/24


お取越と植木市 Otorikoshi-to-Ueki-ichi Otorikoshi Service and the Plant Fair

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 お取越と植木市(おとりこしとうえきいち)は、新潟県三条市本町にある三条別院で毎年11月5日~8日に行われる行事である。
 元禄三(1690)年、三条別院は、米山以北の真宗大谷派寺院を統括する東本願寺の別院として創建された古刹で、今でも「ご坊さま」の名で親しまれている。
 お取越とは、報恩講御引上会(ほうおんこうおひきあげえ)の事で、県内各地からの参詣客で大変な賑わいをみせる。
 報恩講は真宗大谷派にとって一番大切な講で、親鸞聖人の命日に先立って、全国各地で「おとりこし」の報恩講が行われる。
 この期間に開催される植木市は、草花の苗や鉢植え、果樹の苗木、庭木などを求める客が多く訪れ、県下の名物となっている。
 お取越と植木市は、今では欠かせない、晩秋の風物詩である。
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2007/7/11


本願寺 駅逓 Hongan-ji Ekitei 

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 駅逓(えきてい)とは、人や馬の往来などでの休息所として、宿と駅の機能を兼ね備えた施設だ。
 北海道雨竜郡沼田町にある本願寺駅逓もその一つであり、その「セガイ造り」の建物など、道内に現存する駅逓の中でも当時の様子を今もとどめている貴重な存在だ。
 本願寺という名称は、この駅逓が建てられた場所が、同寺の農業用地であったために付いた通称で、建物自体は明治二七(1894)年に建てられ、明治三三(1900)年に駅逓所として官設された。
 その建物は、道内にある駅逓では唯一の二階建てであり、そうした当時の様子を知るためにも非常に貴重な資料となっている。そのため、昭和四六(1971)年には道指定文化財として認定されている。
 当時の札幌もしくは旭川方面から、留萌方面へ向かう交通の要所として。また、奥地で開拓などに励んでいる人々に手紙を集配する郵便局として、この駅逓は重要な役割を果たしてきた。
 時代が流れ、運ぶものは変わっても、今も目の前の道を行き交う人々の流れは変わらない。
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2007/6/19


正信寺 Shoushin-ji Shoshinji Temple

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 正信寺(しょうしんじ)は、北海道浦河郡浦河町にある浄土真宗大谷派の寺である。本尊は、阿弥陀如来像。
 安政五(1858)年、函館に役寺正信坊施設として創立されたのが、始まりとされる。
 明治一一(1878)年、最初の住職となる清水綱道が、日高国浦河郡への移転を願い出た。
 翌年、堂宇を建て、本尊である阿弥陀如来像を持って浦河村鱗別に移転し、本願寺末寺とした。
 昭和三四(1959)年、昭和二七年の十勝沖地震により破損した本堂その他を現在地に移転すると共に、新築した。
 正信寺は、浦河で一番開基が古いといわれる寺であり、今も地元の人々に篤く崇敬されている寺院である。
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